第12話 アリアネル①
人間界では、山奥の雪も解け、色とりどりの花々が芽吹き始める季節――
「……どうした。顔色が悪いな」
「は……ハハハハハハハ」
げっそりと頬を
原因は、間違いなくこの目の前の男が自分に下したとんでもない命令のせいだ。
顔色が悪いと思うなら、誰かにこの無茶ぶりを肩代わりさせてほしい。
「少々――いや、かなり寝不足が深刻なので」
――寝たい。寝たい。休みたい。自分の時間が欲しい。
「そうか。……仕事を減らすか?」
「いえむしろ仕事の方が五億倍楽です仕事を減らされてあの未知の生物と顔を突き合わせる時間が増えるくらいならお願いですから仕事をさせてください」
魔王からの提案に、句読点を一切挟まずに早口で言い切る。
まるで世界は我のものと言わんばかりに、自由極まりなく振舞うあの天使の顔をした悪魔のような存在と、仕事をせず丸一日一緒にいろと言われたら、さすがに精神を病む気がする。
嘗めていた。――完全に嘗めていた。
どうして赤子と言うのは、あんなにも訳が分からない生態をしているのか。
仕事を減らされたところで、赤子といる時間が増えるのであれば、ストレスは軽減されない。自分の思い通りに時間を使える仕事の方が、何億倍も楽だ。
(意味が分からない――!こんなに手のかかる存在を、人間は日常的に産み、育てているというのか――!?生物としての欠陥品でしょう!?)
ただでさえ脆弱な人間の中でも、ひと際脆弱な赤子という存在。自分独りでは食事も排泄もままならないのは、どう考えても生物としておかしい。
ミルクを飲ませて盛大に吐き戻されたことは数知れず。おしめを変えている途中に排泄されて衣服を汚されたことも数知れず。
一生懸命寝かしつけて、やっと自分の時間が出来た――と喜んだ矢先に、数十分で起きて泣き出すのは何故なのか。小一時間問い詰めたいが、残念ながら言語を解さないときた。
怒鳴りつけても、嫌味を言っても、意味はない。ばぶばぶと理解出来ない泣き声を発しては、何がおかしいのか、いきなりヘラッと笑いかけてくる始末。
七転八倒の日々を経て、まだたった数か月だと言うのに、ゼルカヴィアはそれまでの生活を根幹から変えざるを得ない羽目になった。
赤子がやってくる前は、日中はいつもパリッとした衣服で仕事に従事していたが、いつ吐瀉物や涎で汚されても良いように、洗いやすく動きやすい服装にした。長らく長髪だった髪の毛をバッサリと断ち切り、風呂の時間も毎朝の支度の時間も、何もかもを短縮した。
以前は少し潔癖なきらいがあったが、今となっては赤子の涎も鼻水も涙も排泄物も吐瀉物も平気だ。そんなことをいちいち気にしていては、メンタルと体力が持たない。鼻水を口で吸う羽目になったときに全てがどうでも良くなった。
これを『当然のこと』と言って受け入れている人間界の"母親"という生物は、もしや魔王の次に尊敬に値する生き物なのではないか。
今後、赤子を持つ母親にストレスを与えて不用意に瘴気を発生させるのは控えよう、と心の片隅で誓う。
「赤子は順調に育っているか」
「はい、何とか。寝返りを打つようになったので、人間界の書物によると、今は大体生後四か月から六か月程度なのではないでしょうか。この辺りは、かなり個体差があるようなので、なんとも言えませんが」
「言語は覚えないのか」
「今でも、『あー』とか『ぶー』とか、意味を成さぬ発話をしては手足を動かしているので、本人の中では、何かしらの意図があるのかもしれません。とはいえ、意味のある単語を発するところは未だ耳にしたことはありませんし、言語習得もまた、個体差の激しい分野のようなので、いつごろに――というのは皆目見当が尽きませんね」
「……そうか……」
目の下に隈を湛えながら、ふふふ……と不気味な笑みを漏らす右腕に、魔王はそれ以上の問いかけをやめた。――目が完全に据わっている。
「お前自身は、ちゃんと食えているのか」
「ご安心を。アリアネルが眠った隙をついて、部屋の外に出て十秒で摂取する技を身に付けました。魔王様がお造りになった、あの、瘴気の薄い部屋にもだいぶ慣れてきましたしね」
敬愛する主を安心させるように、肩を竦めて答える。
正天使の加護がついた乳飲み子――つまり、魂が底抜けに善性に振り切れている存在。
何もしなくても、特別濃厚な聖気を発するような存在が、瘴気塗れの魔界に来れば、息苦しさに苦しむのも当然だった。
魔界へやって来てすぐに虫の息になった赤子を抱えて、途方に暮れたゼルカヴィアを見て、魔王は城の中の一部屋に瘴気を通さぬ結界を張ってやり、そこをゼルカヴィアの執務室兼私室兼育児部屋と定めた。
今までは、毎日魔王の傍で執務を手伝わせていたのを、必要事項は全て
結界の張られた室内で半日も過ごせば、部屋の中の瘴気など全て食らいつくせる。
魔族であるゼルカヴィア自身には、瘴気も聖気も生成する能力はないため、あとは同室にいる赤子が勝手に聖気を振り撒いて部屋を満たすという寸法だ。ゼルカヴィア自身が息苦しくはなるだろうが、扉を開けて廊下――結界の外に出れば、そこには魔界の瘴気が溢れているため、すぐに必要量を摂取することができる。
こうして赤子は、魔界の瘴気問題もクリアし、すくすくと成長するようになったのだが――
人間界で購入したらしいベビーベッドの隣に物々しい執務机を並べて、汚れてもいい動きやすい服装で髪を振り乱しながら仕事と育児を両立するゼルカヴィアは、それまでの理知的でスマートな振る舞いが板についた慇懃無礼な性格を思えば、シュールとしか言いようがなかった。
「アリアネル――あの赤子の名前だったか」
「はい。生憎私は、人間の名付けになど詳しくありませんので――長い人生の中で、どこかで聞き及んだことのある、私が唯一知っている人間の女の名前をそのまま流用しました。さすがに、名前がないと後々不便かと思いまして。……問題がありましたでしょうか」
「いや、いい。……ただ、名付けは、変に情を移す危険もある。くれぐれも気を付けろ」
「大丈夫ですよ。そもそもが、困り果てた末に思いついた、どこの馬の骨とも知れぬ女の名前を流用しただけの、愛情の欠片もない名付けですし――こんなにも私の生活を不自由極まりないものにしてくれた存在に、どうして愛着など持てましょうか」
はぁ、と深いため息をついて眼鏡を押し上げる。
「……それならば、良いのだが」
言いながら、魔王はじっと自らの片腕たる忠臣を見やる。
確かに、赤子を次代の勇者たちが攻め入る時まで育てろと命じたのは自分だが――そのために、生活スタイルも考え方も赤子の育成のためにそれまでと全く変えてしまったゼルカヴィアは、本当に赤子に情を寄せていないと言えるのだろうか。
「お前は、そう見えて意外と、情が深い。どこからどう見ても生粋の魔族、という振る舞いをしているくせに、変なところで非情になり切れず――」
「――魔王様」
低く冷ややかな声が、苦言を呈す主の声を遮る。
しん……と一瞬の沈黙が降りて、部屋の温度が数度下がったような錯覚が起きた。
「お戯れを。……私は、生粋の魔族です。貴方がそうあれ、と望む限り――貴方の一番傍で、貴方を助ける、第一の僕です」
眼鏡の奥の深い青緑の瞳がまっすぐに魔王を見据えた。
「……そうか。ならば、良い。引き続き、仕事に励め」
ふいっと手を振って、退室を促す。そろそろ、赤子の様子を見に帰らなければならない頃合いだろう。
「すべては魔王様の御心のままに――」
恭しく礼をして、ゼルカヴィアは静かに魔王の執務室を後にしたのだった。
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