第十章

第206話 モノクロの楽園①

 ふと気が付くと、やけに眩しい世界に立っていた。


(夢――か。かつて飽きるほど見たこの光景も、随分と久しくなったものだ)


 どこか頭の片隅で、冷静な自分が囁く。

 記憶の整理を行うため、造られし存在である天使も魔族も、定期的な睡眠を必要する。普段は忘れていると思い込んでいるような、意識の奥底に潜む記憶が、時折こうして夢という形で現れることがあった。


 魔界では決して見られぬ、燦々と降り注ぐ陽光は、目に痛いほど眩しい。足元には世界中の美しい花々が咲き乱れ、音楽を司る歌天使が奏でる清らかなメロディーが絶えず遠くに響いて耳を楽しませる。

 それは世界を生んだ造物主が、孤独を癒そうと生み出した命天使の心を楽しませるために作った、”楽園”――


「ここにいたのか、命天使」


 カサ……と背後で花畑を踏みしめる音が響き、魅惑的なテノールが語り掛けるのを聞いて、命天使はゆっくりと声の主を振り返った。

 近づいてくるのは、長い黄金の髪を風に遊ばせながら逞しく鍛え抜かれた肉体を惜しみなく晒す、燃える炎の瞳を持った男型の天使。


「……正天使」

「聞いたよ。水天使が、造物主の逆鱗に触れたと」

「あぁ……」


 言葉少なく答えて、視線を戻す。

 造物主に命じられ、己で生んだ命を終わらせた。――その躯を埋めた、乾いた土と、咲き乱れ風に揺れる花々。


「難しいものだ。円滑に世界を回すため、人間や特定の天使に対して好意的に接するような性格にすれば、稀にこうしたイレギュラーが起きる」

「ふむ。……難儀だね」

「孤独を愛すような性格に造るのは簡単だが、それで世界が円滑に回らなければ、本末転倒だ。人間に乞われ、力を貸すことを厭うような性格では、すぐに水不足で人間界が干からびる。人だけではない。もしも花天使や地天使との協調性がないように造っては、地上の実りも期待できず、深刻な飢饉が起きるだろう」


 皺を寄せた眉間のあたりをぐっと指で揉むようにしながら、命天使は唸るように呟く。

 どうやら、次の水天使をどんな性格にするか、思いのほか悩んでいるらしい。


「情に流されぬような性格にすれば良いのでは?僕たち第一位階の天使のように」

「いや、それは悪手だ。全てを理論的に判断する存在は、人間に恐れを与える。奴らが水を貯える術を持たぬ文化水準である以上、まだしばらく、各地で雨乞いは続くだろう。水天使は人間にとって味方であると印象付けておきたい。時に情に絆され、施しとして雨を降らせるくらいの方が、ありがたがられるはずだ。……何より、理性的に造るのは、時間がかかる。水は人間にとって死活問題だ。悠長なことを言っていられない」

「そうか。……命の創造は、僕には理解の及ばぬ範囲でもある。任せるさ」


 ぽん、と初代正天使は命天使の肩のあたりに拳を置く。

 そして、地面の下に葬られたかつての仲間を悼むように、そっと瞳を閉じて祈りをささげた。

 

 ざぁ――と一陣の風が吹き抜けた後、長い髪を押さえつけて、正天使は瞳を開ける。

 

「少し、心配していたが……いつも通りな様子で、良かった」

「心配……?」


 ぴくり、と命天使が眉を顰める。白皙の美貌が微かに歪んだ。


「水天使は、君によく懐いていただろう。さすがの君も、思うところがあったんじゃないかと思ったのさ」

「は……馬鹿馬鹿しい。寝言は寝て言え」


 気遣うような紅い瞳を向けられ、命天使は吐き捨てるように言う。

 

「そもそも、俺に不用意に近づこうとする時点で、頭がおかしいとしか言えん。他の天使や加護を与えた人間と、必要以上に親しくなるだけでもリスクだと言うのに――造物主に最も気に入られている俺を相手に、常識の範囲を超えて懇意にしたいと近づくなど、論外だ。冷静な判断が出来ない存在として、遅かれ早かれ、粛清対象となったことだろう」

「全く……相変わらず、冷たい男だ。あんなに露骨に好意を向けられていたというのに……」


 透き通った水色の大きな瞳を熱っぽく潤ませて、頬を上気させながら、敬愛と言うには大きすぎる愛を命天使にまっすぐにぶつけていた女型の天使を思い浮かべて、正天使は苦笑を刻む。

 生殖行為を行わない天使に、恋愛感情などというものはないはずだが、あの水天使の視線は、人間たちが”恋愛”と呼ぶに近い熱量を持っていたように思う。


 それをはっきりとぶつけられても、眉一つ動かさず、絶対零度の瞳でばっさりと切り捨て続ける命天使は、序列一位の天使として相応しい。

 どれほど天界に、”イレギュラー”と呼ばれる粛清対象の天使が生まれようとも、命天使だけは昔から何一つ変わらない。それは、造物主が手ずから造った存在だからなのだろうか。


「ねぇ、命天使」

「なんだ」


 正天使は、何万年もただ己の『役割』に忠実に生き続ける孤高の天使に、何ということもない顔で語り掛ける。

 

「君の目には、今もまだ、世界はモノクロに映っているのかい?」

「――……」


 ザァ――

 ひと際強い風が二人の間を駆け抜けて、花畑の花びらを数枚散らしていく。


 赤色

 黄色

 水色

 桃色

 紫色


 ――見る者の目を楽しませるそれらの花弁は、命天使の心を決して揺らさない。


「……色を識別は出来る」

「そういうことじゃないって、わかってるだろう。全く……」


 憎まれ口をたたいた美貌の天使に、呆れたような口調で正天使はぼやいた。


 命天使の言葉に嘘はない。

 視覚機能に色覚異常を持っているわけではない。色を色と認識することに問題はなく、今も宙に舞い踊る花弁の色を言い当てろと言われれば容易い。


 だが――命天使が眺める世界に、”いろどり”はない。

 

 造物主が、彼の心を楽しませるためにと造った”楽園”の中――命天使は、一度たりとも心を躍らせたことはなかった。

 ただ、毎日、同じことの繰り返し。

 

 世界を円滑に回すため、新しい命を造り、世界の秩序を守り、イレギュラーが出れば処分をして、再び新しい命の生成に取り組む。

 狂っていく造物主の相手をして、その狂気を受け止めながら、与えられた『役割』をこなすことだけを考えて生きていく。


 そこに、”彩”は必要ない。


 目の前に広がるのは、ただ、無機質で無感動な、つまらない景色だ。

 それは、彼が生み出されたその瞬間からずっと、変わらない。


「哀しいね。……この天界は、きっと、他の誰でもない――君のためだけに造られたものだというのに」


 風に遊ぶ一枚の花弁を戯れに詰まんで、正天使が呟く。

 

「何が哀しいものか。感情など、『役割』を果たすうえで何の役にも立たない」


 言い切って、命天使はため息を吐く。


「――お前も、俺と同じに造ったのだ。わかるはずだろう」


 ふっ……と正天使の指に摘ままれていた花弁が再び風に舞い、空へと浮かび上がる。

 燃える瞳の正義の天使は、複雑な笑みを頬に湛えていた。


「……そうだね。君は、僕を、自分と全く同じ思考を辿る存在に造った。ひどく理性的で、情に流されることなく、”正義”を司る『役割』に忠実に生きる天使として」

「おかげで、助かっている。……お前との会話は、余計な気を使わない」


 小さく嘆息する命天使は、心からそう思っているのだろう。

 優秀過ぎる頭脳も、どこまでも与えられた『役割』にストイックな性格も、時に冷酷と恐れられるような決断も――同じ天使と言えども、容易に他者に理解されるようなものではない。

 

 だから、彼らにとって、互いは唯一無二だった。

 誰にも理解されない己を、真に理解してくれる、唯一無二の存在――

 

「じゃあ、僕も、いつか、君に粛清されるんだろうか」

「何……?」

「さっき、君が言ったんだろう。……君と懇意にするなんて、頭がおかしい奴しかいないって」


 ふふ、と笑みを漏らす正天使に、半眼を返す。

 こんな性格に造ったつもりはなかったが、数万年を生きるうちに、環境や接する存在に影響されることがあるというのは既に立証済みだ。彼も、それなりに何かの影響を受けているのだろう。


「お前は、他とは違う。俺と対等に同じ目線で語り合える存在だ。造物主も、お前を気に入っている。……そんなことは、天地がひっくり返ってもありはしない」

「信頼してくれているようで、何よりだよ」


 肩を竦める正天使に、少し大きなため息を吐く。


「心配するとすれば、治天使の方だろう。……最近のアレの様子は、やや目に余る」

「あぁ……うん。そうだね」


 少しバツが悪そうに、正天使は視線を逸らす。

 命天使は、苦言を呈すように正天使を見据えた。


「アレの要領の良さは天下一品だ。そう造ったからこそだが――いつ、限界が来て、造物主に目を付けられるとも限らない。お前にその気がないなら、距離を置くことも考えろ」


 命天使が、己と対等の立場として造ったもう一人――治癒と慈悲を司る、女型の天使。

 コバルトブルーの美しい瞳を持つ美女は、燃え盛る炎の瞳を持つ正義の天使に、時折熱い視線を送ることがあった。

 

 造物主以外の『特別』を造ってはならない――そんな制約を課された天使にとって、治天使のその視線は、危ういと言わざるを得ない。

 要領がよく、プライドも高い治天使は、粛清された水天使のように露骨な振る舞いをすることはなかったが、付き合いの長い命天使が見れば勘づくくらいには、その秘めた想いは肥大しているように思えた。


「はは……もし、”その気”があったら、応えてもいいのかい?……優しいね、命天使は」

「……そんな話をしているわけではない」


 むっと顔を顰めて、命天使は吐き捨てるように言う。

 しかし、正天使は長い付き合いのこの冷たい天使の本音をよくわかっていた。


 きっと、”その気”があると答えたなら――命天使は最後まで見て見ぬ振りをするのだろう。

 造物主に指摘されれば逆らうことは出来ないが、己から密告したり、罰を与えたりという行動はとらないはずだ。


 露骨すぎる態度の水天使に日ごろから苦言を呈しながらも、造物主に命じられるまで放置し続けたように。


「大丈夫だよ。……僕に”その気”はない」

「……そうか」

「勿論、それなりに情はある。同じ第一位階の天使だからね。あれでいて賢いし、慈悲を司る存在だから、僕や君にはない発想を持っていたりもする。そういう意味で、尊敬しているところもあるかもしれない。ただ――彼女に対しては、ただの同志としての気持ちしかない。仲間、だよ。……心配しなくても、上手にあしらう」

「それならばいい」


 一つ頷いて、命天使は息を吐く。そういうことならば、今度、自分からも治天使にさりげなく苦言を呈しておくべきだろう。

 正天使は、いつもの様子の命天使に、苦笑した。


「大丈夫だよ。僕は造物主以外の『特別』を造ったりしない」

「そうか」

「あぁ。たとえ、唯一無二の存在である君でさえ、僕の『特別』にはならないのだから」

「――……」


 ザァ――と風が舞う。

 彩のない世界に、花弁が舞い散る。


「――君も、そうだろう?」


 風の中で、微かに嗤った声が呟く。


「――……あぁ。そうだな」


 静かに肯定する声が、モノクロの楽園に空虚に響いた。

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