魔王様の娘
神崎右京
序章
第1話 プロローグ
それは、古い、古い――気の遠くなるほど遠い、
父がいて。
母がいて。
家庭には笑顔が溢れていて。
父が、不器用に抱き上げてくれるのが、好きだった。
母が、優しく子守唄を歌ってくれるのが好きだった。
自分が愛されていることを、疑うことすらしなかった。
子供の成長を温かく見守る父母。
将来なんてわからないはずなのに、”未知”を”可能性”だと言って笑ってくれた。
未来という名の大きく真っ白なキャンバスを前にして、不安ではなく希望を語ってくれた。
世界は優しくて、幸せは周囲にありふれていて――
――崩れるのも、一瞬だった。
「走りなさい!逃げるのよ!」
「
どんな時も穏やかで優しく微笑む母が、怒声に近い声を上げるところを初めて聞いた。
暗い緑掛かった黄色の瞳は、父がその色に似ていると言って庭に埋めた植物の実に似ている。
子守唄を歌うときも、絵本を読み聞かせるときも、いつも柔らかく緩んでいたその瞳が、今はキリリと吊り上がり、恐怖と怒りに鋭さを増していた。
「
「
遠くから、ドンドンと何か低く重い音が響いている。
方角は、正面玄関だ。母の言う通り、従者が立てこもり、抵抗しているのかもしれない。
予想以上に敵が近づいていることを知り、さぁっと血の気が引いていく。腹の底に響く重低音に、ひゅっと臓物が縮み上がる気配がした。
「いい?私たちの使命は、あの方が帰ってくるまで生き延びること。あの方がお戻りになれば、きっと大丈夫――」
母が安心させるように目線を揃えて言い聞かせている途中、バンッと大きな音がした。
「玄関が――!」
「こちらへ!」
重たい扉が破られたであろう破裂音に、母はすぐに反応して、子供の手を取り走り出す。
(父様がお戻りになるまで――僕が、母様を、守らなきゃ――!)
必死に足を動かしながら、目の前で揺れる長い飴色の髪を見て、心で決意する。
母は、身体が弱かった。まるで、いつまでもこの狭い世界に馴染めないとでも言うかのように、ことあるごとに息苦しそうに顔を青ざめさせていた。
それが、父の前では唯一心地よさそうな顔をするのだ。
いつも厳しい顔をしている父も、母を傍に置いている時だけは柔らかい表情をしていた。
仕事で忙しく、滅多に帰ってこない父だったが、帰ってきたら、母と自分を傍に呼び、大きな掌で不器用に頭を撫でてくれた。
誰もが恐れる父が、そんな表情を見せるのは、世界で唯一、母の隣だけだとよく知っている。
だから――大好きな母も、大好きな父も、どちらも笑顔でいてほしいから――
「
ドタバタと土足で屋敷を走り回る音が響く。
母は、普段物置にしている部屋へと転がり込んだ。大きな荷物の影へと、親子二人で身体を縮ませて隠れる。
ほどなく、金属製の武具がこすれ合う耳障りな音が近づいてきた。上階まで上がってきた者がいるらしい。
「子供を探せ!ここにいる子供は、一人しかいない!大人は全員殺していい!家主が帰ってくる前に必ず終わらせるぞ!」
(僕を、探してる――!?)
野太い男の声に、ぞわっ……と背筋を震わすと、ぎゅっと自分を抱く腕に力がこもった。
顔を上げると、母の顔が青ざめて、呼吸は荒くなっている。
「母様、お身体の具合が――!」
「大丈夫……大丈夫よ……静かに……」
優しく頭を撫でて安心させるように言いながら、震える吐息は彼女が苦悶に喘いでいることを感じさせた。
ぐっと唾を飲んで、抱きかかえられた背中に手を回し、そっと
彼女がこうして苦しんでいる時、幼い子供の自分に出来ることは何もない。
わかってはいたが、それでも何もせずにはいられなくて、不穏な足音がバタバタと廊下を騒がしくする恐怖と、母が苦しんでいる表情に胸を潰されそうになりながら、涙を浮かべて必死に背中を擦る。
「あぁ……大好きよ、私の愛しい子……本当に貴方は優しい子ね」
優しいのは、母の方だ。こんな時にも、息子を気遣い、青ざめた顔で笑みを作り、頭を撫でてくれる。
見たことはないけれど、きっと、絵本で読んだ”天使”というのは彼女のような顔をしているのだろう。
(父様――はやく、早く帰って来て――!)
ぎゅっと瞳を固く閉じて祈るように念じる。
じっと息をひそめてどれくらいの時間が経ったのか――
バサッ……
「……?」
不意に、窓の外で大きな音がした。
(鳥――?)
イメージしたのは、絵本の挿絵に載っていた、大きな鷲。
それが耳元で羽ばたけば、こんな音を立てるのではないか――と思うような音が、窓の外から、響いたのだ。
「っ……!」
母が、息をのんで固まる気配がした。
思わず、窓の外を確かめようと荷物の陰から顔を出して――
「駄目っ!」
母に、鋭い声で制止されて頭を伏せさせられるのと――
「おやおや。あの男の寵愛を一身に受ける存在が、こんな埃っぽいところに隠れているとは」
窓の外から声が響くのは、同時だった。
「ぇ……」
ここは、二階だ。窓の周囲に大きな植物はないから、何かを伝ってやってくることも不可能だろう。
それなのにどうして、こんなに近くで声がするのか――という疑問は、すぐに払拭された。
「ははっ。脆い素材だ。敵襲の可能性を考えていなかったのかな?相変わらず、変なところで甘い奴だ」
ピシッ……と窓ガラスに亀裂が入る音がする。刹那の後、劈くやかましい音を立てて、大きな窓が一気に割られた。
呆然と見ていると、ゆっくりと人が入ってくる。
いや――人の形をした何か、が。
「狭いな。羽が傷つかないといいんだけど」
ぬっと現れたのは、中性的な顔立ちをした美青年。
その背には――光り輝く、純白の羽。
「天使――?」
「おや。よく勉強している。ああ見えて、意外と教育熱心な男だったのかな?笑えるね」
茫然と呟いた言葉に、天使がクックッと可笑しそうに笑った瞬間、ぞわり――と形容できない不快さが背筋を通り抜けて行った。
天使は焦ることなく、コツ、コツ、とゆっくりと近づいてくる。割れた窓ガラスを踏んで、ジャリ……と耳障りな音が響いた。
「さて。子供をこちらに渡してくれるかな。君に用はないんだ」
「っ……!」
ふるふる、と母は頭を振って必死に子供を隠そうと腕の中に抱え込む。
「困ったね。僕たち”天使”は、”人間”を直接殺せない」
ふぅ、と物憂げにため息を吐く。整った顔立ちと光り輝く金髪は、絵本に出て来た天使そのものだったが、目前にしたときの形容しがたい恐怖は、慈愛の象徴として描かれていた絵本とは正反対のものだった。
「第一ここは、瘴気塗れでとても不愉快だ。僕も、早く立ち去りたい――……よし。こうしよう」
ふざけた調子でそう言って、ピィっと甲高い指笛を吹く。
その途端、バタバタと至る所から足音が集まってくるのが分かった。
「ぁ……!」
「”人間”が”人間”を殺す分には問題ないからね。せいぜいイイ声で鳴いてくれ。美しい断末魔をあの男に聞かせられないのが残念で仕方ないよ」
ニィ――と美しい顔が歪んで、呪いのような言葉を吐き出す。
バンッと扉が乱暴に蹴破られた。
「いたぞ!ここだ!」
「いや!!!やめて!この子だけは――!」
「母様!母様!!!」
やってきた屈強な男たちは、隠れていた荷物の陰から、母の長い飴色の髪を掴んで乱暴に乱暴に引き出す。必死で手を伸ばしたが、すぐに拘束され、母子は無理やりに引きはがされた。
「お願い助けて!子供だけは、助けて!!」
「全く、人聞きの悪いことを言う。僕らはそっちの子供にしか用がないって言っているだろう?殺したりしないよ」
悲痛な母の声を意に介した様子もなく肩を竦めると、連動しているのか純白の翼がバサリと音を立てた。
「天使様!この女はどうしますか」
「そうだね。別に、今回の目的には関係がないから、放置してもいいんだけど――」
天使は、笑う。
うっとりするほど美しく、恐ろしい笑みで。
「あの男が絶望に暮れるところを見たいから、出来る限り無残な形で、殺そうか」
――口から飛び出した言葉は、まるで悪魔のそれだった――
新規登録で充実の読書を
- マイページ
- 読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
- 小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
- フォローしたユーザーの活動を追える
- 通知
- 小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
- 閲覧履歴
- 以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
アカウントをお持ちの方はログイン
ビューワー設定
文字サイズ
背景色
フォント
組み方向
機能をオンにすると、画面の下部をタップする度に自動的にスクロールして読み進められます。
応援すると応援コメントも書けます