第182話 夢の終わり②

 アリアネルとの通信を終えて、ゼルカヴィアは一つ息を吐く。

 覚悟を決めるときが、来たようだ。

 心を落ち着かせ、すぅっと息を吸い込む。


伝言メッセージ。魔王様――」

「待って!!」


 すぐに異変に気付いたルミィが悲痛な声を上げて、青年の声を遮る。


「ゼルカヴィア様!お願いです!もう少し、もう少しだけ――!」

「いいえ。約束したでしょう。アリアネルが到着したら、その時点でタイムアップだと」

「でも――」


『――なんだ。ゼルカヴィア』


 まるで、その伝言メッセージを待っていたかのように、すぐに脳裏に低い声が響く。 


(あぁ――いつもの、魔王様ですね。冷ややかで、冷静で、どこまでも判断を間違えない、公明正大な、我らの王)


 その絶望的なまでに慈悲のない声に、心の隅で安堵する自分がいた。

 

 ――よかった。


 まだ、自分が過去に施した記憶操作うらぎりは、気づかれていないらしい。


「時間をかけ過ぎました。遭遇した夢天使は第二位階相当で、我らのみでのオゥゾの救出は絶望的です。魔王様のご判断を仰ぎたく――」

「ゼルカヴィア様!!!」


 オゥゾと切り結んでいるルミィの悲鳴に近い声が響き渡るが、ゼルカヴィアの判断は変わらない。

 魔王が出来ない役割を担う――それが、ゼルカヴィアが己に課した己の役割。

 

 魔界の利を考え、誰よりも魔族らしく、魔族のためだけに動くこと。


 今、大局を考えたときに、魔界のために最も避けなければいけないことは、炎の魔族を失うことではない。

 忌々しい天使勢力に、上級魔族らの名前をよく知っている少女を奪われ、争いに利用されることだ。


「情けないご報告で申し訳ございません。可能であれば、こちらに出向いていただき――」

「戦闘の途中でよそ見とは、言い度胸だなゼルカヴィア!」


 夢天使の叫びと共に、カッと空が強烈な光を放った――と思ったときには、周囲に耳を劈く爆音が響き渡る。

 「神鳴り」の語源に相応しく、天にいる超越者の怒りを体現したかのような、荒々しい稲光がゼルカヴィアへと収束し――


『問題ない。――もう着く』


 それは、脳裏に響く声だったのか、肉声だったのか。

 気づいたときには、ゼルカヴィアの目の前に巨大な紫色の魔方陣が浮かび上がっていた。


 おそらくいつものように無詠唱で生み出されたのであろう転移門ゲートは、相当な魔力量を消費すると思しき大きさだったが、現れた位置が悪い。

 偶然にも、ゼルカヴィアの前に現れた魔王は、意図せず光の速さで突き進む稲妻の標的となってしまった。


「魔王様!」

「雷天使の魔法か。フン……お粗末な出来だ」


 思わず主の背を押しのけようと焦った声を出したゼルカヴィアに構うことなく、一つ鼻を鳴らした魔王は、軽く手を目の前に翳す。


 バシュゥッ


 その美しい指に轟音と共に迫り来る光の矢が到達するより先に、無詠唱で生み出された封天使の障壁に阻まれ渾身の魔法が掻き消された。


「っ、な――!?」 

「雷天使、か……顔を見なくなって久しいが、アレは昔から、プライドが高いだろう。元人間の未熟な天使に、こんな児戯にも等しい完成度で己の魔法を使われてもへそを曲げぬとは――アレも、一万年の月日の中で、少しは精神的に成熟したということか」


 魔法をかき消した掌を眺め、軽く握ったり開いたりしながら、鼻を鳴らして淡々と呟く魔王を前に、夢天使は言葉を失う。


「お前、が……魔、王……だと……?」

「いかにも。……見ない顔だ。第二位階と言ったか。元は人間の身で、過ぎたる地位を与えられたらしい」


 王者の風格を身に纏ったまま睥睨され、夢天使は青ざめた顔でたじろぐ。


「なぜ……魔王が、天使の魔法を……」

「……?」


 紫色の唇から洩れる震えた声に、魔王はその美しい眉を軽く顰めた。


「それに、その容姿――その外見は、まるで――まるで、天使そのものじゃないか――!」

「ほぅ。正天使あのバカは、己の眷属に迎え入れた者にすら、真実を教えていないのか。哀れなことだ」


 どうやら、人間だったころに得た誤った知識のまま、盲目的に正天使の言葉を信じて従っていただけらしい。

 この様子では、魔王が人間界を手中に収めて天使を餓死させようとしているという出鱈目も、心から信じ込んでいることだろう。


(なるほど。夢天使と言えど、夢の中を自由に覗けるわけではないんですね。あくまで、幸福だの恐怖だのという感情に紐づいている夢の欠片を見つけ出し、恣意的に大きくしてやることしかできないわけですか。意図的な夢を見せると言うのも、己が伝えたい内容を反映させることが出来るというだけで、対象者が実際に見ている夢に入り込み、登場人物として振舞うようなものではない、と。今回の陰謀に関しても、魔族に対して『魔王に××と命令される夢』程度の意図を反映させることは可能でしょうが、その者がどういう状況シチュエーションでそれを命じられるかは、本人の深層心理に任せられる、ということでしょうか)


 ゼルカヴィアは、陰謀のカラクリを知って苦い顔をする。

 天使の本来の役割は、人間に沢山の聖気を生じさせてそれの一部を摂取することであり、それは眷属であっても同じだ。

 つまり、魔族と事を構えるのを前提とした魔法を持つ天使などいない。

 この世に存在する天使の魔法は全て、人間が聖気を生むのを助けるためのものだ。夢天使の魔法とて、その原則から外れることはない。

 ただ、一連の事件においては、魔王という絶対的な存在を頂く特殊な存在である魔族に対して、人間相手とは異なり、その固有魔法が意図せず対象者の行動を縛る絶大な効果を発揮することに気付いた、ということだろう。

 その上、夢天使の中に、人間界を蹂躙する絶対悪の魔王を斃すべし、という正天使によって植え付けられた幻想があるならば、己の行いに何の疑問も持たずここまで突き進んできたに違いない。


「くっ……正天使よ、我に――」

「遅い」


 バッと握り締めた魔晶石を天に掲げるようにして叫んだ天使を遮るように呟き、魔王はひゅっと指を振る。


「な――あっ!」


 面倒くさそうな素振りと共に繰り出されたのは、封天使の魔法だった。

 気付いたときには、指の一振りで現れた橙色の鎖が全身に幾重にも巻き付き、身体の自由を完全に奪われる。


「くっ――!」

「堕ちろ」


 尊大な態度で命令するように軽く指を下に振るだけで、魔力で造られた鎖がジャラジャラと耳障りな音を立てながら、羽を持つ天使を受け身すら許さず、問答無用の強さで地面へと叩きつける。


「がっ……カハッ……」

「さすが魔王様。お見事です」


 ぱちぱち、とゼルカヴィアはふざけたように拍手をして主を讃えるが、魔王はつまらなさそうに鼻を鳴らすだけだった。

 魔王のかつての言葉が正しいなら、鎖の長さは拘束力の強さを表すと言う。

 首から足の爪先まで雁字搦めにされた芋虫のような今の姿では、魔水晶を掲げることも出来はしないだろう。

 他の高位天使の力を借りる魔法が一切使えなくなったことに加え、瘴気が色濃いこの場所では、眷属に過ぎぬ夢天使は、魔晶石が無ければ己の魔法を自由に操ることすら難しいはずだ。


「これでは、指先一つ動かせないでしょう。偉そうに我らの頭上をうるさく飛びまわっていた羽虫が、羽を堕とされ虫けらのように地面を這いずる様は、とても愉快ですねぇ」

「っ、貴様……!」


 嘲笑を隠しもしない口調で言われて、天使は悔しそうに歯噛みするが、何一つ言い返すことは出来ない。


「さて……無駄な時間を過ごす趣味はない。単刀直入に命じよう。……そこにいる炎の魔族に掛けた固有魔法を解け」

「っ、誰が、そんな――」

「そうか。……無駄は嫌いだと言ったはずだ」


 涼しい顔のまま、魔王は軽く右手を天使へとかざし、グッと握り込む。


「っぁああああああああああっっ!!」


 バキバキバキバキ――!


「ぅわぁ……なんとも痛そうな音ですねぇ」


 魔王の掌が握り込まれるのに合わせて、橙の鎖が容赦なく天使の身体を締め上げ、たくさんの骨が砕ける音が周囲に響き渡る。

 痛みに満ちた絶叫が迸っても、魔王は眉一つ動かすことはなかった。


「解く気になったか?」

「ぁ……っ、はぁ……」


 気の毒になるくらい顔を真っ白にして、激痛に玉のような脂汗を滲ませる天使は、もはや虫のようにか細い息を吐くしかできない。

 固有魔法は、術者本人にしか掛けられない。解除も、出来ない。

 たとえ名前で縛って命じたとしても、世界のバランスを保つため、固有魔法の使用に関しては、命を造り出した者が使用を却下すること以外、干渉することが出来ないようになっている。

 一度、使用の許可が出されて行使された魔法は、術者本人の意志で解除させるしかないのだ。


「フン。元人間の癖に、強情な奴だ。……いや。元人間だからこそ、愚かなのか」


 理解の出来ないものを見る目で呆れた声を出した魔王は、少し考えてから、スッと再び手をかざす。


「我、正天使****の名において命ず。全ての問いに、偽りなく真実を話せ」

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