第180話 夢天使⑥
「貴女の失態は二つです。まず一つ。もし本物の魔王様だったなら、この私に決まり文句を用いた”命令”をする愚かしさを誰よりご存知です。どこまでも無駄を嫌う合理の塊たるあの御方が、仰々しい言葉を用いて、わざわざ『動くな』という命令をするはずがない」
「な――!?」
「残念でしたね。というより、貴女の主である正天使は教えてくれなかったんでしょうか?あの男は、その辺りの事情は当然知っていると思っていましたが」
ザリッと踏みしめた地面が音を立てる。
宙に浮かぶ夢天使は、固い顔で警戒を露わにした。
「そして二つ目。……魔王様が、これ以上なく、魔王様らしかった。私の”悪夢”は少し特殊でして、それを察しろと言うのはあまりにも酷ですが――私の”悪夢”が現実のものとなっていたら、きっと、魔王様はあんな振る舞いをされないでしょう。だから、すぐに気づいたのですよ」
「何――だと……?」
軽口を紡ぎながら無詠唱の魔法を密かに練り上げていくと、腹のあたりがじんわりと熱を持つ。
「もし本当に”悪夢”が現実になっていたら――魔王様はきっと、私のことを、あんな風には呼ばないので」
微かな空腹感を感じながら、ゼルカヴィアはふっと口の端で笑みを刻んだ。
「――くっ!」
不穏な気配を察し、即座に夢天使は痛みに耐えながら羽を大きく広げて高度を上げる。
殆ど同時に、ダンッとゼルカヴィアが地を蹴った。
追い縋られぬよう純白の翼で必死に羽ばたくと、バチンッと強烈な音を立てて、羽に衝撃が走る。
「っ、ぁ!」
つい失念していたのだろう。天使が空に展開された光の門に拒絶されるようにして弾かれ体勢を崩したところを、ゼルカヴィアは待ち受けていたかのように剣を振り被った。
「これで終わりです――!」
まっすぐに己の首めがけて飛んで来る刃を見て、玉虫色の瞳が見開かれる。
その瞳に宿るのは絶望――では、なかった。
「っ……雷天使よ!力を貸してくれ!」
「な――」
女の細い喉から迸った悲鳴のような声は、短い呪文となり、何もない虚空から雷を呼び寄せる。
そのまま、術者が描いたイメージ通り、ゼルカヴィアが手にした鋼の魔剣に吸い込まれるように一直線に、太陽よりも高温の光線が奔った。
「っ、ぐ――ぁああああっ!」
まさか、そんな短い詠唱で第二位階の魔法を使用できるとは思っていなかったゼルカヴィアは、剣から伝ってきた雷に利き腕を焼かれ、苦悶の声を漏らす。
「治天使よ!癒しの力を分け与えたまえ!」
夢天使はその隙に、続けざまに魔法を行使する。
(第一位階の、魔法――!?瘴気塗れのこの空間で、そんなに軽々しく、使えるものなのか!?純正の天使ですらない元人間の眷属が――!?)
空中で体制を整え、無様に地面にたたきつけられることだけは何とか回避し、ゼルカヴィアはキッと空を睨む。
鮮血が滴っていた天使の背中が、じわじわと傷が塞がっているところだった。
(一瞬で治癒するわけではない……せいぜい、人間が魔法を行使するときのレベルでしか使用できないということか……)
先ほどの雷も、不意を突かれたせいでダメージを負ったが、真正面から打ち合いになったならば、対処法は無限にあるだろう。
「正天使よ!我に力を!」
空に手を掲げ、朗々と叫ぶ女天使に、ぐっと奥歯を噛みしめる。
仮に人間が行使するレベルの魔法効果だったとしても、おそらくこれで、彼女の身体能力が飛躍的に上がったはずだ。
(聖気がないこの空間で、高位の魔法ばかり……一体、どんなカラクリで――)
目を凝らすと、天使が空に掲げた手に、キラリと何かが光るのが見えた。
「魔水晶――!いえ、魔晶石、というやつでしょうかね……!?」
「よく見ているな、ゼルカヴィア。さすが、魔王の右腕というところか!」
恐らく、オゥゾから伝言や転移門の魔法を封じた封天使の魔法も、同じように魔晶石の力を使ったのだろう。
その石の中に魔法をストックすれば、魔界でも天使の魔法を制限なく使える――歴代の勇者らが編み出した手法は、元人間である夢天使には馴染みのある使い方だったはずだ。
翼を背負った人間の少女のような外見をした天使は、惜しげもなく手にした鉱石を地面へと投げ捨て、新しい石を取り出す。どうやら、強力な魔法が封じられた魔晶石をいくつも持ってきているらしい。
そのまま、取り出した鉱石に片手をかざし、人間の頃から馴染みのある呪文を唱える。
「
アリアネルも使用するその魔法は、持ち運ぶのに適さぬ巨大な武器を召喚するための天使の魔法。
案の定、瞬き一つの合間に、夢天使の手には見事な意匠の長剣が現れていた。
「懐かしいですね。人間だった頃から、獲物は変えていないということですか」
「ゼルカヴィア――僕の、人間としての命の仇!必ずここで、一矢報いる!」
血走った目で空中から睨み据える玉虫色の瞳は、ギラギラと怒りに燃え盛っている。
約五百年ぶりに、元勇者と筆頭魔族とが、天界と魔界の威信をかけて、正面から切り結ぶ事態となった。
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