第4話 頭に叩き込んでおかなきゃいけない話

「よし――ちゃっちゃとフィルターつけちゃおう」


 琴音は床に腰を下ろすと、水槽セットの最後の一品、上部フィルターの梱包を手繰り寄せる。


 ZEX社製、ダブルクリアー600SP。


 ホームセンターとかでよく売ってるやつ。


 だが、そんなチープな印象とは裏腹に、こいつはかなり良質な上部フィルターなのである。メンテナンスが楽だし、濾材の容量も悪くはないし、改造なしで濾過槽を追加できるという拡張性の高さもいい。


 付属のポンプが水中ポンプ――モーターが水槽内に来るため熱によって水温が上がりやすい――なのが玉に瑕だが、逆に言えば駆動音が水で緩和されるぶん、静音性に優れているという見方もできる。どちらにせよ排水するのだから音は出るのだが、モーターの音と水の落ちる音ではえらい違いだ。


「えっと……ポンプで水を吸い上げて、ゴミを濾し取って、きれいになった水を水槽に戻すんだよね?」


「一部当たってる」


「一部?」


「とりあえず組もう。できてからのほうが説明しやすいから」


 上部フィルターの仕組みは単純なものだ。箱状の本体にポンプで水を汲み上げて、濾材の入ったスペースへと流し、排水パイプを通して水槽内へと排出する。


 ひととおり組み終わったとき、小清水が呟いた。


「けっこう簡単にできてるんだね」


 ど素人の小清水がそう感じるくらいなのだ。もっとも、上部に限らずフィルターのやることなんて「吸水、濾過、排水」に集約されるのだから、当然のことではあるのだろうけど。


「ま、簡単な構造をしてるってことは、それだけよくできてるシステムなんだよ。これも『手軽でもいいもんはいい』の一つってことでさ」


「ふぅん……」


「さあ、濾材入れるよ」


 琴音はフィルターに同梱されていた濾材の封を開ける。


 まず、メーカー純正の濾過マット。これは二種類のマットがそれぞれ一枚ずつ同封されていて、片方は物理濾過用の白いマット、もう片方は吸着濾過および生物濾過用の濾材入りマット、という構成になっている。


 そして、厚紙でできた小箱を開ければ、多孔質セラミックの欠片が詰まった袋状のネットが出てくる。このネットをフィルターの中に投入することで、生物濾過の機能が強化されるわけだ。


「待って、巳堂さん」


「ん?」


「物理濾過と吸着濾過と生物濾過って、どう違うの?」


 ――いい質問だ。


 琴音は唇の端を吊り上げる。


「それ訊いてくるの待ってた。アクアリウムをやるんだったら、濾過についてのあれこれは絶対頭に叩き込んでおかなきゃいけない話だから」


「う、うん。がんばって覚えるよ」


 小清水がスマートフォンをポケットから取り出した。メモ帳アプリを開こうというのだろう。


 彼女の準備が整うのを待って、琴音は人差し指を立てた。


「一つめの物理濾過。これはさっき小清水さんが言ったやつだね。水草の切れ端とか餌の食べ残しとか、そういう目に見えるゴミをスポンジやウールで濾し取る」


「ああ、だから一部当たりって……」


「そ。ゴミを取り除くだけじゃ水はまだ綺麗にならない。やってるうちに水自体に色がついてくるし、有害な成分も溶けてるままだから。――そこで二つめ」


 中指を立てる、


「吸着濾過。これは使う濾材によって効果が違うね。活性炭なら色素や臭いの元を吸着して水を透明無臭に……いや無臭は言い過ぎか、臭いを抑えられる。ゼオライトなら生き物にとって有害なアンモニアを取り除ける」


「へぇ。便利だね」


 どうかな、と琴音は肩をすくめる。


 ここまで散々「手軽でもいいものはいい」事例を目にしてきたこともあって小清水は素直に受け取ったのだろうが、残念ながらこの話ばかりは裏がある。


「吸着濾過には欠点もあってね。吸着できる量に限界があるんだ」


「じゃあ、そのうち交換しないといけない?」


「正解。ランニングコストがかかるって意味じゃ物理濾過も同じだけど、あっちはモノがスポンジマットとかウールだから安く済む。でも吸着系の濾材は炭や鉱物のかたまりだから――」


「お財布に優しくないんだね……」


 琴音は重々しく頷く。


「というわけで、お金稼げる社会人ならまだしも、私たちがデフォで使い続けるのはキツい濾過方法だね」


「でも必要なら仕方ない……よね?」


「いや、それがそうでもない。たしかに今みたいな立ち上げの時期は吸着があると助かるんだけど、生物濾過さえ完成しちゃえば意味は薄れるし」


「絶対なきゃダメってわけじゃないの?」


「私の経験上、水が黄ばんだときだけ活性炭買ってきて入れる、くらいで充分かな……」


 琴音は自宅の水槽を思い浮かべる。


 流木を入れている手前、脱色目的でフィルターの中に活性炭を仕込むことはたしかにある。


 が、もしも水質を改善するために導入しなければならないとしたら、それは濾過のシステムを見直すほうが賢明だというのが琴音の見解だ。


「ピンチヒッターみたいなもんだと思っておけばいいよ」


 吸着濾過についてそのように総括して、琴音は二枚のマットを濾過槽に敷いてやった。


 おそらく吸着の効果が続くのは一ヶ月程度。


 その一ヶ月の間に、ボール濾材かリング濾材を手に入れたほうがいいだろう。


「その『ボール濾材』と『リング濾材』っていうのは?」


「ボールとリングっていうのは濾材の形。球になってるからボール濾材、ドーナツみたいな形してるからリング濾材。どっちも生物濾過のための濾材だね。――要するにこいつのお仲間」


 琴音はセラミック材の詰まったネットをつまみ上げ、小清水の前で揺らしてみせる。


「――小清水さん、ここから一番大事な話をするよ」


「う、うん」


 小清水がごくりと固唾を呑む。


 琴音はフィルターの吐出口直上のスペースにセラミック材を投げ込むと、マットを詰めた濾過槽の上に散水トレイを渡し、さらにその上からプラスチック素材の蓋をはめ込んだ。


 あとはポンプに通電させるだけ。


 だがその前に、と空いた手の指を三本立てて、


「三つめ、生物濾過――」


 小清水は神妙な面持ちでスマホに指を添えている。


 いい心がけだと琴音は思う。


 メモするだけの価値がこの話題にはある。水槽を立ち上げるというのは、生物濾過のサイクルを作り上げることと同義だ。厳密な言葉の定義はさておき、少なくとも琴音はそのように信じている。


「バクテリアの話は覚えてる?」


「えっと……濾過はバクテリアがやってくれるって話だったよね」


「そう。ざっくり纏めると、それが生物濾過なんだ。バクテリアが有害物質を分解して毒性の弱い物質に変える、その働きを利用するんだよ」


 生体を飼う以上、アンモニアの発生は宿命と言える。


 餌の食べ残し、あるいは食べた後のフン――発生源が何であれ、アンモニアが生体にとって猛毒であることには変わりない。そこでアンモニアを食べるタイプの細菌を繁殖させ、彼らに処理させようというのが生物濾過の骨子だ。


 バクテリアがアンモニアを食べて、亜硝酸塩を排泄する。


 別のバクテリアが亜硝酸塩を食べて、硝酸塩を排泄する。


 アンモニア。亜硝酸塩。硝酸塩。段階を経るごとに毒性が弱まっていく。


「――とまあ、こんなところかな」


 解説を終えて小清水を一瞥すると、彼女は一心不乱にメモを取っているところだった。


 やがて全ての入力を終えたか、小清水の右手の指が止まる。視線が己の打った文面を舐め、最後のところでぴたりと止まる。


「硝酸塩っていうのは毒じゃないの?」


 ――うお。


 こいつ頭の回転は鈍くないっぽいな、そう内心で呟いて琴音は再び口を開く。


「硝酸塩も毒だよ。アンモニアや亜硝酸と比べれば毒性が弱いってだけ」


「じゃあ、処理しないといけないんだ?」


「もちろん。水草を植えてれば肥料として勝手に使ってくれるけど……やっぱり一番手っ取り早いのは、水換えして水槽の外に出しちゃうことだね」


「ほぇー……水を換えるのってそういう意味だったんだ……」


 小清水が感嘆の息をつく。


「すごいね巳堂さん。物知りだなぁ」


 柔らかそうな栗色の髪がふわりと弾み、くりくりとした大きな双眸が真正面から琴音を捉えた。


 上部フィルターの縦幅ぶんの近さだった。


「い、」


 琴音の心臓がびくりと跳ねる。


「いや……このくらいは、アクアリストなら皆知ってることだから……」


 小清水由那が人懐こい女の子なんだということは琴音にもわかる。


 そうでなければ一人暮らしを寂しがったりはしないだろうし、同じ学校の生徒とはいえ初対面の相手を自室に招いたりもしなかったはずだ。


 自分とは人種が違う。


 こういうヤツは嫌いではないが、得意でもなかった。


「――さ、そんなことよりフィルターつけるぞ」


「あ……うん」


 小清水の視線を引き剥がすように、琴音はフィルターを抱えて立ち上がる。


 琴音がフィルター本体を水槽の上に置くのと同時、ポンプから伸びたプラグを小清水が持ち、壁の電源プラグに挿し込んだ。


 ポンプが動きはじめる。


 吸水パイプから吸い上げられた水が散水トレイを通り、濾過槽のマットへと落ちてゆく。マットに染み渡った水は隣のスペースへと流れ、セラミック材入りのネットに触れて、吐出口から水槽内へと還ってくる。


 吐出口からの水流が水面を叩き、川のせせらぎのような音を鳴らし続ける。


「落ち着くねー」


 小清水がふにゃりと笑う。


「……一応言っておくけど、これ寝るときもずっとつけっ放しだからね。うるさくてもガマンしろよ」


「だいじょうぶだよ、音あるほうが落ち着くよ」


 小清水は水の回る様子にすっかり夢中なのか、笑顔を浮かべたまま瞳を輝かせている。


 ――何飼うかもまだ決めてないのになあ。


 ――ま、いいけどさ……。


 自分が教えたことで喜ばれるのは、悪い気はしない。


 琴音はしばらく小清水と肩を並べて水槽を見つめた。


 底床もなければ水草もない、いわゆるベアタンクの水槽に時間を忘れて見入るのは、琴音にとっても初めての経験だった。

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