Ⅲ.水槽増設の章

ⅷ.究めよネイチャーアクア道

第87話 まだまだ勉強中の身ですけど

 夏休み明けに巳堂みどう琴音ことねをまず驚かせたのは、天河あまがわ千尋ちひろの実力テストの答案がそこそこの点数を叩き出していたことだった。


「どーよコト、あたしだってやればできるもんだろ?」


「そういうセリフはせめて平均点に届いてから言えよ。……でもまあ、前みたいに赤点スレスレじゃなかったのは褒めてやる」


 ともあれ、部活への参加停止処分を最も危ぶまれていた千尋が追試を回避できたのは僥倖だ。生物部はこれで誰が欠けることもなく、新学期の活動をスタートさせることができる。


 並んで廊下を行き、第二理科室の扉を開けた。


「――あっ! コトちゃんに天河さん、昼休みぶり!」


「その様子ですと、お二人のほうも無事テストを切り抜けられたようですね。お疲れ様でした」


 意外なことに、小清水こしみず由那ゆな翠園寺すいおんじ莉緒りおがもう席に座っていた。


 珍しいことが重なる日だな、と琴音は二度目の驚きを覚える。由那と莉緒の所属する一年B組はホームルームが長引きがちなことで知られ、事実この部活を始めてからというもの――とはいっても一学期の暮れからという短い期間ではあるが――、自分たちのほうが先に来て待っていることが大半だったのだ。


佐瀬させ先生、なんかあったの?」


「今回、うちのクラスから追試になる人が出ちゃって……よりによって科目が生物だったから……」


「機嫌が悪い、と」


 B組の担任を務める佐瀬瑞穂みずほは、生物部の顧問をしていることからも察せられるとおり生物教師だ。自分の受け持つクラスから自分の教える教科で赤点者を出したとあってはピリピリするのも無理はない。生徒にナメられがちな彼女といえど、今度ばかりは迫力を帯びたに違いない。


「――で、」


 琴音は理科室特有の実験机の上へと目を向ける。


「由那と翠園寺さんは何をしてたんだ?」


 黒い天板には一冊のパンフレットが載っていた。青を基調とした枠の中に、ネオンテトラの泳ぐ水草水槽が大写しになったカバーデザイン。


 アクアリウム系の即売会でもあるんだろうか――そんなふうに考えながら題字に視線を走らせた。


「ん……『第一回・亜久亜あくあ市アクアリウムコンクール』?」


「って、あたしらが出場するやつじゃんか。もうパンフ配布されてんだ」


 後を引き取った千尋の問いに由那はこくりと首肯して、


「翠園寺さんが持ってきてくれたの。ディープジャングルに置いてたんだって」


「あー、あの地下街にできたとかいう店か」


「今はルールを確かめてたんだ~。ねっ、翠園寺さん?」


 はい、と莉緒が微笑を浮かべる。


「応募要項と審査にまつわるレギュレーションを確認していました」


「なるほどね。んで、どんなもん?」


「フィルム写真と画像データ、どちらでも応募できるようですわ。市内のアクアショップや一部ホームセンターからも発送できますが、画像データならオンラインで申請するほうが手軽かと。ちなみに出品料は無料、〆切は一月三十一日です」


「おし、画像データでいくぜ」


 千尋は即決、


「きょうびはデジカメのほうがクリアに写るからな、水景そのもので勝負すんならフィルムよりたぶん有利だろ」


「撮影はどうしましょう? カメラ含めてプロにお願いするのであれば、わたくしのほうで手配しておきましょうか?」


「いんや、もともとは学校の宣伝目的っしょ? だったら写真部の連中に掛け合ったほうがいいんじゃねーかな、あいつらならそれなりにいいデジタル一眼レフとか持ってんだろ」


 まさにトントン拍子。千尋の決断力には昔から凄まじいものがあったが、下調べのできる莉緒と組むとこんなにも高速で物事が進むのか。


 矢継ぎ早に重要事項が決まってゆく疾走感を前にして、琴音は振り落とされないよう脳内のギアをなんとか合わせる。


「――レギュレーションのほうはどうなの?」


「水草レイアウト部門とマリンアクア部門に分かれていますわ。どちらも個人と団体を問わず応募できるそうです」


 つまり、生物部としては水草レイアウトのほうで賞を狙うことになるわけだ。


「水草レイアウト部門に関して言えば、審査の手順こそ簡素ではありますが、評価の対象となる項目自体は概ねWAPLCと同じですわね」


「だ、WA……? ごめんわからない」


「The World Aquatic Plants Layout Contest――毎年開かれている、世界規模の水草コンテストの略称ですわ。六十カ国以上のアクアリストが鎬を削るネイチャーアクアリウムの祭典です」


 そういえば雑誌にも特集が載っていたかもしれないな、と琴音は記憶を探る。たしか、ネイチャーアクアリウム向け専門に水槽用品を展開しているメーカー「ADO」が主催するコンテスト……だった気がする。


 ――思い出さなきゃ出てこない時点で、タイプが違うってことなんだろうな。


 そこそこ水景を作りたがるほうだと自分では考えていたが、結局のところ琴音は生体メインのアクアリストである。莉緒たちネイチャーアクアの人間と比べれば大会への意識は低く、あまり真剣に特集ページを捲ったことはなかった。


「評価項目は全部で六つありまして」


 莉緒が親指を折り畳む、


「一つめは、魚の棲息環境を再現できているかどうか」


「再現、か……」


「そこまで厳密にリアルを求める必要はないと思いますが、少なくとも生体の棲息環境として相応しいものであることは絶対条件ですね。そのレイアウトのもとで魚や水草が健康を損なわず生きていけるのか――それを審査されると考えてください」


 琴音が、由那が、千尋がそれぞれ頷いたのを見届けてから、莉緒は人差し指を曲げた。


「二つめは、持続可能性があるか」


「えっと……写真を撮るときだけ綺麗な水槽じゃダメで、ちゃんと管理してキープできるような水槽ならOK……ってこと?」


「小清水さん、ご明察です。長期維持を前提としないレイアウトで生体を飼育できるはずがありませんから、水槽のコンテストという趣旨に鑑みれば当然のことと言えますわ」


 ――へえ。


 声には出さなかったが、琴音はひそかに感心を覚えていた。コンテストというからには美しさを最優先に競うものとばかり思っていたのだ。


 とんでもない誤解だった。


 水草に生体――あくまでも命を大切にする姿勢は、自然の名を冠するに相応しい。


「三つめは技術です。レイアウトを意図どおり制作できているか、適切に管理できているかが問われます」


 莉緒が中指を、次いで薬指を折る。


「四つめは、オリジナリティとインパクト。レイアウトのアイデアと完成度が審査されます。独創的かつ美しい印象を与えるほど高得点になるわけですね」


 小指、


「五つめは自然感です」


「……自然感?」


 琴音は眉をひそめた。左右に目を動かしてみるが、やはり自分と同様、千尋も由那もいまひとつピンときていない表情を浮かべている。


 莉緒は少し考えて、


「うまい説明が難しいと申しますか、文字どおりなのですが……つまり、そのレイアウトが自然らしく見えるほど評点が上がるということです」


「どんなに綺麗でも、たとえばアートアクアリウムみたいに入れ物の形とかイルミネーションとかに頼るのはアウトって話?」


「それもありますし、自然にはありえないような地形を組んでも高い評価を得られないということもありますね」


 腑に落ちた。


 さっきの「厳密にリアルを求めなくていい」との兼ね合いから判断するに、自然感とはおそらく「リアルは必要ないがリアリティは必要」みたいな話なのだろう。南米系の水草をひとつ選んだら他の水草や生体も南米系で揃える――なんて辻褄合わせまでは不要だが、ぱっと見て現実にあり得そうな光景であることは要求される。


 莉緒は三人の顔を順繰りに見回して、理解が浸透したことを確かめて後、もう片方の手の親指を折り曲げて告げた。


「最後の六つめが、構図と配植です。ネイチャーアクアリウムとしての基礎がしっかりしているか、配植のバランスはどうかといったことが見られます」


「なんか、思ったより細かく決まってるんだな。水槽の審査ってもっと感覚的にやるもんだと思ってたよ、私」


「もちろん感性は重要ですが、デザインは知識と技術が占める部分も大きいですからね。――なんて、わたくしもまだまだ勉強中の身ですけど」


 唄うように笑った莉緒が、琴音の手から戻ってきたパンフレットに熱意のこもった眼差しを注ぐ。


「アクアリストとして、わたくしたちが今どのレベルにあるのか……コンテストへの参加は、そのことを知るためのよい機会かと思いますわ」

  • Xで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

新規登録で充実の読書を

マイページ
読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
フォローしたユーザーの活動を追える
通知
小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
閲覧履歴
以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
新規ユーザー登録無料

アカウントをお持ちの方はログイン

カクヨムで可能な読書体験をくわしく知る