EX.番外編
特別編 私がバッタを食べたって(5万PV到達記念)
金がない。その一言に尽きた。
仮にも――いや仮ではなくてちゃんとした雇用関係にはあるのだが――高校教師として定職に就いている
二十代の終わりが見えてきてそろそろ焦り始めているとはいえ社会人としては未だ若手、月給の額など知れていたし、貯金のできる性分でないことも災いした。各種の公共料金の支払いは済ませた、電話と家賃もまだ大丈夫、ペットのミシシッピアカミミガメの餌代まではなんとか捻出したものの、そこで口座の残額が力尽きてしまったのだった。
つまり、現在の状況をより正確に表すならば――
「食費がない……」
こういうことになる。
十八世紀に「消費支出に占める飲食費の割合が高いほど生活水準が低い」と著した統計学者は、たしかドイツのエルンスト・エンゲルであったか。彼が今の自分を見たらひっくり返るだろうな、と瑞穂は幽鬼のごとき笑みを浮かべつつ思う。
「給料日は……来週か」
部屋の壁にかけてある日めくりカレンダーを見やる。日付は十六日。給料が振り込まれるのは二十五日だが、幸い今月の二十五日は日曜日だから、二十三日振り込みへと前倒されるはずである。
耐えなければならない期間は、ちょうど一週間。
その事実を頭に叩き込んだ瑞穂は、次にキッチンを片っ端から調べて回った。
「冷蔵庫は空っぽ。油と調味料は残ってる。米は……まあパスタと合わせればギリ保つかしらね」
空腹をごまかす程度なら可能ではある。マヨネーズを使えばチャーハンくらいは作れるし、オリーブオイルと刻み唐辛子とチューブにんにくを引っ張り出せばペペロンチーノができる。
もっともそれらは、具がないという欠点に目をつぶればの話だ。
実質ほぼ炭水化物オンリーの食生活を一週間ぶっ通しで続けたら体調を崩すか、ただでさえ気になりだした体重がいよいよ厳しいことになるか。
「生活に余裕のない奴がペット飼っちゃダメっていうけど、マジねこりゃ」
自分の場合、余裕は「最初からなかった」のではなく「突発的になくなった」わけだが。
――まあ、同じことよねえ。
いくら亀の食い扶持を優先的に確保したとはいっても、そのせいで自分が倒れてしまっては結局亀も共倒れになるのだ。
こんなことなら一気に設備を買い換えるのではなく段階を踏んでやるべきだったかもしれない。後悔は先に立たないから後悔なのであって、文句を言ってもどうにもならないのだけれど。
リビングに戻って、広々としたコンテナボックスの傍らにどっかりと座り込む。このコンテナボックスこそが今回困窮する原因ともなったペットの新居だ。いっしょに買い換えた水中ポンプやバスキングライトのピカピカっぷりが眩しい。
呑気に這い回っている亀へと視線を落とす。
ミシシッピアカミミガメのトト。成長したその体躯を眺めていると、名前の由来でもある怪獣映画の主役の姿が脳裏をよぎった。あちらは実際のところリクガメだったと記憶しているが、今となってはこっちもすっかり怪獣めいた迫力を放っている。
「――やれやれ」
怪獣は巨大だ。巨大なものはゆっくり動く。そう考えると亀という生き物はたしかに怪獣なのかもしれなかった。
吐息、
「ま……何とかなるでしょ」
なにしろ自分は怪獣を飼っているのだ。大抵のことはどうとでもできるだろう、なんて気分が湧いてきた。
視界の中で、トトは水面に浮かぶ乾燥バッタを探り当てたところだった。頭をもたげて口を伸ばし、咥えたが早いか喉の奥へと飲み込んでゆく。
「……って、うん?」
もしゃもしゃとバッタを咀嚼するトトを見て、ふと瑞穂の脳ミソに閃くものがあった。
「バッタなら、そのへんの草むらで捕れるんじゃない……?」
爬虫類や熱帯魚の飼育において、ゴキブリやコオロギに代表される昆虫類は日常的に使われる餌である。近年ではバッタも例外ではないようで、こうして大手メーカーからバッタの干物が発売されるに至ったほどだ。
なぜ虫なのか。
虫が高タンパク低脂肪であるからだ。
「タンパク質……タンパク質か」
光明が見えた。
「亀が食えるくらいなんだから、人間様の胃袋なら問題なく消化できる。寄生虫は火を通せば殺せる。……これ、いけるわ!」
瑞穂は部屋の片隅にまとめてあった生物飼育用品の中から、プラケースと虫取り網を引っ張り出した。
「そもそも昆虫食は最近注目されているものね。私がバッタを食べたって何もおかしいことはないはずだわね!」
瑞穂は安アパートの部屋を飛び出す。道路を一本挟んだ裏手には、数年前に廃倉庫が解体されたきり何も建っていない、実にだだっ広い空き地がある。そこではぼうぼうに雑草が茂っているから、バッタなんて何匹でも捕まえられるはずだった。
その後しばらくして、界隈では「深夜に網を振り回しているヤバい女が出没するらしい」との噂が立つに至った。
瑞穂が教え子にバッタを食った話をするのは、この翌年のことである。
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