第86話 わたしたちだけの内緒のお話

 それからのことについて言えば、琴音は由那に秘密をひとつ打ち明けるはめになった。


「――そもそも、」


 夏祭りからの帰り道、由那がふと首をかしげてこう尋ねたのだ。


「どうしてあんなにたくさんアルバイトのシフト入れてたの? クーラーがすごく高いっていうのは前に教えてもらったけど……それにしたって必要なぶんはもう働いてるんじゃ?」


 もしかしたら誰かに訊かれるかもしれない、とは琴音も思っていた。


 というか事実、真凜には訊かれた。


 知り合ったばかりの真凜ですら不思議がっていたのだ、生物部の面々なら尚更不可解に感じていたに決まっている。もともとアクアリウムをやっていた千尋や莉緒は言うに及ばず、今や由那とて――これは自分が伝えたからだが――クーラーの相場がどのくらいか把握しているのだから。


「……たいした理由じゃない。聞いてもつまらないぞ」


 ちなみに、真凜には結局話していない。大人である彼女は今のと同じ一言から「口にしたくない事情」を感じ取ったようで、それきり触れてはこなかった。


 が―― 


「そういう言い方されると逆に気になるよぅ」


「ああ、そうだよな……知ってた」


 案の定、由那は引き下がらなかった。


 琴音はもごもごと唇を動かして、ためらいがちに深く溜め息をつきながら後ろ髪をぽりぽりと搔き、


「――つまり、その。クーラー以外にも買わなきゃいけないものができたんだ」


 実のところ、本当にたいした理由ではないのだ。もし真凜がどうしても聞きたがっていたら、自分はきっと彼女にだって喋っていたはずである。


 どうあれ真凜は詮索を避けた。


 だから、この話をするのは小清水が最初で――願わくは最後だ。


「冷凍庫。ワンドアの小さいやつでいいんだけど、それでも消費電力の少ないのを買おうと思ったらそこそこするから」


「ギンガちゃんの餌の関係?」


「ああ」


「わたしもアカムシ使ってるからわかるよ。……え、でも、おうちに冷凍庫は普通にあるよね……?」


 至極当然の質問。もちろん由那は純粋な好奇心から尋ねてきたのだろうし、彼女の指摘するとおり冷凍庫はキッチンに鎮座ましましている。巳堂家の食卓を一台で支える三段式冷蔵庫の最下段――そこが肉や魚介類やアイスクリームを保存しておくための冷凍庫だ。


 しかし、琴音はぐっと喉を詰まらせた。


 まさかこちらがこの瞬間痛いところを突かれた気分でいるなどとは、由那は夢にも思っていまい。


「アカムシは大丈夫だったんだけどな……今度はクレームがついた」


「えっ?」


「アロワナにデュビアあげてる動画見てさ……デュビアは私もきついからコオロギを買ったんだ。正直虫好きじゃないから生きてるのはキープできないけど、冷凍のなら我慢できるだろうと思って」


「……もしかして、揉めた?」


 琴音はしぶしぶ頷く。


「私が我慢できても父さんと母さんが嫌だって……」


 アカムシは許されていたからコオロギも問題ないだろう、むしろ昆虫食の認知が広まりつつある最近ではコオロギのほうが受け入れられやすいはずだ――なんて高をくくったのがまずかった。


 家族会議が開催された。


 そもそもアカムシからして決して好意的に迎えられていたわけではなく、キューブ状のパッケージに収まった状態で、さらに新聞紙でグルグルに包むまでやってようやく食材と共に保存することを許されたのだ。考えなしにコオロギまで追加したのは我ながら迂闊だったと言うほかない。


「――ぷっ、あ、あはははっ」


 由那が声をたてて笑う。琴音は憮然として唇をへの字に曲げた。


「これだから言いたくなかったんだっ」


「ご、ごめんごめん。ちょっと前にも別のところで聞いたような話だったからおかしくなっちゃった。冷凍餌の扱いで家族とトラブルになるのって、ひょっとしてアクアリストあるあるなの?」


「爬虫類飼ってる人のほうが深刻だろうけどな。ただまあ、アクアでもそれなりに聞く話ではある」


「コトちゃんでもそういう失敗するんだね。なんだか親近感」


「……くそう……」


 せめて由那の前ではもう少しかっこいい師匠でいたかった。――いや、彼女の部屋でやらかしたバケツひっくり返し事件の後では既に遅しという気もするが。


 琴音はじろりと横目を由那に使って、


「他の人にはバラすなよ。百パーセント笑われる」


「そこは、うん、わたしも笑っちゃったから否定できないかなあ。それじゃあ、わたしたちだけの内緒のお話かな?」


「ああ。――湊さんにも言ってないから、本当に私んちの人間以外だと由那しか知らない秘密だよ」


 その一言を告げてからというもの、こころなしか由那の機嫌は輪をかけて良くなった。耳に残っていたのであろう祭り囃子のメロディをハミングしながら「絶対喋らないよ!」などとはにかむ由那に、頼んだ琴音のほうが戸惑ってしまうほど。


 実際、由那は約束を忠実に守った。


 亜久亜に戻ってきてからも、由那は琴音の秘密を知っているそぶりすら周りに見せなかった。何が何だかよくわからないけれど、とにかくよかったと胸を撫で下ろす琴音である。




 千尋のことについて言えば、由那が持ち込んだ金魚の群れを目の当たりにして実に微妙な表情を浮かべていたのが忘れがたい。


「ザリガニがけたと思ったら金魚かー……」


 千尋のトリートメント水槽で管理してもらっていた稚ザリは、もちろん予定どおり由那が貰い受けた。


 当初より数が減ってしまっていたのは脱皮して稚ザリと呼べなくなった個体がいたためで、決して落としてしまったせいではないという事実は千尋の名誉のためにも付記しておく。成体と化したザリガニたちは佐瀬先生が引き取っていったようで、なんでもペットの餌にするのだと語っていたらしい。


「あれ……そういえば先生って何飼ってるんだろ?」


「亀だとさ。ミシシッピアカミミガメ」


「アカミミガメ?」


「ミドリガメが大人になったやつだねー。頭の左右に一本ずつ赤い模様が入る亀だよ。その模様がちょうど耳みたいに見えるからアカミミガメっつーわけ。怪獣みてーな迫力があるから、あたし的にもけっこう好きな生き物だな」


「へぇ~……あ、今度先生に頼んで見せてもらいに行こうよ!」


「いいねえ。――しかしまあ、」


 そこで千尋は改めて金魚の包み――金魚すくいで捕ったときのままではなく、由那と琴音が詰め替えた新しい袋だ――に視線をやって、意味ありげに口元を緩める。


「前はコトがザリガニ捕りすぎて、今度は小清水ちゃんが金魚とは……何つーか、つくづくお似合いの二人だと思うわ」


「あぅ。ごめんね、押しつけちゃって」


「いやいや、あたしもブラントノーズに食わせる生き餌は欲しかったし、小清水ちゃんたちには面白いもん見せてもらってるからご馳走様って感じ。このくらいはお安い御用さ」


 いろいろ丸く収まってホッとしたぜ――肩をすくめながらそう嘯いて、千尋は金魚を受け取るのだった。




 莉緒のことについて言えば、彼女はすっかり地下街のショップ「ディープジャングル」を行きつけにしようと定めていた。


 コンテスト用水槽のレイアウトという重責にこのところ悩んでいた莉緒であったが、どうやらネイチャーアクア専門店であるディープジャングルのおかげでブレイクスルーを得たらしい。


「インスピレーションが湧きましたわ。休み明けの実力テストが終わったら、さっそく水槽の立ち上げに取りかかりましょう」


「わ、楽しみ! そういえば翠園寺さん、わたしがLANEに写真上げたときすぐに返信つけてくれたもんね。あのお店そんなにすごいんだ?」


「モスの活着のさせ方が本当に自然でしたし、流木や石自体も見事な形のものを選んでいましたから」


 あのショップのセンスは信用できます、と莉緒は断言する。


「ストラクチャーとの出会いは一期一会なので、わたくし自分用にも数点確保してしまいました。お店を見つけてくれた巳堂さんと紹介してくれた小清水さんには感謝してもしきれませんわ……!」


 感極まった様子でほうっと熱い吐息を漏らす莉緒の姿に、由那はただただ目を白黒させる。意外な一面を見たと言うほかない。


 ――まあ、喜んでいいこと……なんだよね。


 莉緒は生物部唯一のネイチャーアクアリウムの専門家だ。コンテストに向けて彼女がモチベーションを上げてくれたなら、それほど頼もしいことはない。




 アクアリストたちの夏は、こうして過ぎていった。




<Ⅱ.水槽管理の章 Fin>

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