第85話 後悔なんてするわけないよ

 最初の花火が上がったのは、りんご飴の屋台の前を離れた直後のことだ。


 そのとき小清水は、掬いすぎてしまった金魚の袋でちょうど両手が塞がっていて、まるでそうすることが当たり前かのように琴音に向かって口を「あーん」と開けてみせていた。


 そのとき琴音は、買ったばかりのりんご飴二本のうちの片方を、驚くほど自然に差し出された小清水の口元へとおそるおそる近づけているところだった。


 どん、と空気が震えて、ひゅるひゅると尾を引くような音が上がっていったかと思うと、遙か高みでオレンジ色の光が弾けた。


 油の切れた機械のようにぎこちなかった琴音の手がビクッと震える。その動きを敏感に感じたらしき小清水が器用にも飴を咥え取り、にっこりと歯を見せて笑った。


「えへへ、ありがと!」


「ど、どういたしまして」


 濃紺の空を彩る炎色反応の芸術にも負けないくらい、小清水の笑顔はいつにもまして眩しい。


「……金魚、片方持つぞ」


「え、いいよ悪いよ。意外と重いもんこれ」


「そのままじゃ飴食べにくいだろ。――あと、水量見ればだいたい重さの想像つく。意外じゃないんだ、私にとっては」


 親切のつもりで発したのが半分、小清水の顔から視線を外す口実が欲しかったという事情が半分。発するセリフが言い訳めいた響きを帯びる前にと、半ば有無を言わせぬままに金魚の袋を一つもらう。


 ――もうちょっと静かなところで見るか。


 琴音はくるりと身を翻す。


 左手に金魚、右手にりんご飴。二人とも両手が塞がった格好である。言うまでもなく手を繋げるはずなどなかったが、それでも小清水はぴったりと後ろについてきてくれた。


 足を向けた先は、河川敷と町とを隔てる土手だ。坂の中腹ほどに陣取って、雑草交じりの芝に隣り合って腰を下ろす。


「よし。ここなら落ち着いて見られるだろ」


 交通規制が始まっているのだろう、土手の上の道路には車一台通りかからない。後ろからのライトに邪魔されることもなければタイヤの音に入り込まれることもなく、ただただ祭りの喧噪を遠巻きにしながら天上のアートを仰ぐことができる。


 金魚の袋を傍らの茂みに置いたとき、またひとつ花火が打ち上がった。ぱっと玉が弾け、緑と白の光線が四方八方に伸びてゆく。


「ひふぇいだねぇ~」


「なんて?」


「きれいだねぇ」


 飴を口から抜き取った小清水がやわらかく双眸を細める。あどけない面差しに浮かぶ表情は相も変わらず上機嫌で、花火を照り返して色づく瑞々しい頬にやはり琴音は目を奪われてしまう。


 その果実のような頬に投げかけられる光が、また色を変えた。小清水の引力に抗って頭上へ目を戻せば、今度は色とりどりの小さな花びらがいくつも咲き誇っている。


「――ああ、きれいだ」


 絢爛な花火が夏の夜天を飾り、七色の光を地へと散らせて川面をキラキラと輝かせる。隣に座る可憐な少女の浴衣には椿、自分には白百合。


 どこを見ても花、花、花だ。


 やって来て正解だったと、心から思う。


「あのね、」


 空のカンバスを雄大に使って描かれるアートに二人で見入って、ふと沈黙を破ったのは小清水だった。


「電車の中でお話したことなんだけど、あれから考えてみたんだ」


「電車? ……ああ、今は今のことを楽しもうって話か」


 小清水はこくりと頷く、


「――それでね、巳堂さんってもう進路決めてるのかなあって」


「まさか。そこまで真面目じゃないぞ私……まず進学だとは思うけど、具体的にどこの大学行くかなんて見当もつかないよ」


 まだ入学してから半年も経っていないのだ。大学どころかどんな分野に進みたいのかだって定められていないし、焦って決めることでもあるまいと思う。


 小清水の顔が、明らかな安堵を映して緩んだ。


「よかった。わたしも進学だとは思うから」


「ああ、どっちかが就職だとたまに会うにも時間合わなくなっちゃうかもだしな。とりあえず当面それはなさそうだ」


「ん……たまにじゃなくってね。巳堂さんさえよかったらなんだけど」


 間、


「――いっしょの部屋に住めたら、楽しそうだなぁって」


「ぶっ!?」


 琴音は危うく自分のりんご飴を噴き出しかけて、すんでのところでこらえる。


 ――な、何を言い出すかと思えば……!


 たしかに無理な計画ではない。まるきり同じ大学に進むのでなくとも、たとえばそれぞれの通う大学が同じ亜久亜市内にあればルームシェアは充分に可能だろう。


 けど、だからって――異論を紡ぎかけた琴音はしかし、小清水の表情をまっすぐに捉えて口をつぐむ。


 小清水は、紛れもなく本気だ。


「お仕事始めた巳堂さんには敵わないかもしれないけど、わたしだってそこそこ家事できるんだよ。迷惑かけないよ」


「それは……知ってる。一人暮らしだもんな」


「料理ならむしろ教えてあげられるよ」


「それも知ってる。ガサガサのときは助かった」


「水槽のセットも、お魚さんのお世話も二人ならきっと今よりラクだよ」


「そりゃまあ効率はよくなるだろうけど……ギンガへの餌やりできるのか?」


「うっ……頑張って慣れるよ!」


 スネークヘッド特有のジャンプに驚いた小清水がひっくり返ったのは、琴音としては未だ記憶に新しいところだ。あれだけ激しく反応したのだ、当の小清水の脳裏にはいっそうショッキングな出来事として焼きついているはずだ。


 それでも、小清水は退かなかった。


「嫌かな?」


 嫌なわけがない。


 高校を卒業した後も小清水と共にいられるのなら。そんな未来なら、自分のほうこそ大歓迎だと言いたい。


 ――でも、


 琴音は長い息をつく。口を開いて問い返すつもりだったのに、何をどんなふうに尋ねるべきなのか迷ってしまう。


「……後悔しないか?」


 渦巻いた疑問は結局、たった一つに集約された。


「高校は県内で行けるとこ選んだんだろうけどさ、大学なら東京にでも別の地方にでも行けるだろ。せっかく好きなところ選べるチャンスなのに、私に合わせるようなことしていいのか?」


 一度唇を割ってしまえばあとは簡単なものだった。言葉はすらすらと溢れ、今度は止めることのほうが難しかった。


 ――けれど。


 小清水が何と答えてくるかはすでに予想できている。


 こちらの口数の多さはある種の自信のなさの現れで、だとすれば彼女の返事はただの一言に違いない。


「後悔なんてするわけないよ」


 ――ほら、やっぱり。


「好きなところを選べるから、わたしは巳堂さんといっしょがいいなって思ったんだもん」


 春に知り合った仲だ。お世辞にも長い付き合いではない。だとしても友達として何ヶ月かを過ごしていれば見えてくるものは幾つもあって、小清水がどこまでも純朴に物を言う奴であることを、琴音は今更疑おうとは考えない。


 小清水は裏のある話し方をしない。


 だから今の言葉だって、彼女の偽らざる本音に決まっていた。


「――わかった」


 ここまで言わせてしまったのだ。次は自分が勇気を出す番だ。


 以前のように感極まった勢いではなく、しっかりと自分自身の意思でやるのだ――琴音は己にそう言い聞かせながら右手を伸ばして、小清水の薄桃色の袖から覗く左手に、そっと触れた。



「まだ先のことだけどさ。よろしく……



 掌に包んだ彼女の指が、ぴくりと動く。


「――み、巳堂さん、いま、」


「巳堂さん、じゃなくていいよ。……なんだかすっかり呼び方固まってたけどさ、こんな話するようになってまで苗字で呼び合うの、他人行儀っぽくて逆に変だろ」


 琴音の視界の中、くりくりとした瞳が見開かれてゆく。


 思わず不安になって、


「……い、嫌か?」


「嫌じゃない!」


 今日一番の昂揚ぶりで払拭された。


「改めてよろしくお願いします、!」


 彼女の指がもぞもぞと動いて、琴音の掌から這い出した。手はそのまま離れるでもなく姿勢を変えて、白くきめ細かな五指を琴音の指の狭間へと差し込んでくる。


 繋いだ手に力を込めたのは、果たしてどちらが先であったか。確かな温もりが伝わってきて、自分の熱も届けばいいと琴音はきゅっと握りを強める。


 しばらくはこのまま動きたくないな、とぼんやり思う。


 せめて、空に咲く花々が散り終わるまでは――このまま。

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