第102話 ごめんね夜中に起こしちゃって

 パイプとホースの交換が済み、CO2添加キットの取り付けと設定も終わって、生体を投入して解散した、まさにその日の夜にそれは起こった。


 というより、起こっていたらしい。


 そのとき琴音は瞼の裏の暗闇へと意識を沈めていて、事態に気づいたのはスマートフォンの通知音が耳元で鳴り響いてからだった。


「んぁ……? LANEか、なんだよこんな時間に」


 眠い目を擦りながら画面をフリックする。ロックを解除する直前に見えたデジタル時計は丑三つ時を告げていた。


「送り主は……由那か」


 グループチャットではなかった。メッセージは琴音だけを宛先にして送られてきている。


〔由那:コトちゃん、だいじょうぶだった? ――二分前〕


 どうにも要領を得ない。


 大丈夫か否かを尋ねられねばならない覚えといえば、飼育水を飲んでむせ返ったことくらいだ。が、生体もいなかった水槽の水をあんな少量誤飲した程度でどうにかなるほど人間の胃腸はヤワではない。


 どちらかというと自分のアイアンクローを受けた千尋のダメージのほうが深刻だと思うし、あれを心配したのだとしたら送り先がこちらというのは解せない。


 琴音は寝ぼけた頭を左右に振って数秒考えたが、結局は諦めて意味を糺すことにした。


〔ことね:何の話だ? ――現在〕


〔由那:気づかなかったの? ――現在〕

〔由那:地震きてたよ! ――現在〕


「マジか」


 何もわからなかった。壁の向こうで寝ているはずの両親が起きてくる気配も感じないところを見るに、たぶん大きな揺れではなかったのだろう。むしろ由那はよく気づいたものだ。敏感なのだろうか。


 インフォメーションアプリを立ち上げて災害情報を読んでみると、亜久亜市の震度は二とされていた。


「なんだ二か……ほんとによく気づいたな由那」


 感心が半分、こんな遅くにわざわざメッセージまで送ってくるなよという呆れが半分。二十一時とか二十二時とかならまだしも、すでに日付も変わっているという時間にたかが震度二で騒がれてはたまらない。


 ところが次に受信したメッセージを見たとき、琴音は由那が不安がる理由を悟ってしまった。


〔由那:水槽、何ともないかな? ――現在〕


 ――なるほど。


〔ことね:ないだろ ――現在〕

〔ことね:うめぼしの水槽だって無事だろ? ――現在〕


〔由那:うん ――現在〕


〔ことね:じゃあ問題ないよ。60cmレギュラーがびくともしないんだから、私の90や学校の120がどうこうなるわけない ――現在〕


 まあ重いぶん圧力もかかるわけだけど、というのは完全に心配を煽るだけなので言わないことにする。


 水槽と水槽台との間には滑り止め用のマットだって噛ませてあるのだ。


 どのくらい揺れが続いたか知らないが、自分や両親の眠りが覚めなかったことからして長時間ではあるまい。ごく短時間の震度二ならまず被害など出ない。


 壁際の90cm水槽へと視線を移せば、魚は飼い主の思考を裏付けるかのように静かな佇まいを見せていた。スネークヘッドのギンガ。スマホの光が気になるのかこちらに顔を向けてはいるが、底砂の上から動く様子はまるでない。


 と、そのスマホが立て続けに音を奏でた。


〔由那:安心したよ! ――現在〕

〔由那:寝てたよね? ごめんね夜中に起こしちゃって ――現在〕


 打っている奴の顔が浮かんでくるようなメッセージだった。琴音はふっと表情を緩めて、


〔ことね:気にするな ――現在〕

〔ことね:安心したならちゃんと寝なよ。明日も学校だぞ ――現在〕


 らじゃー、と敬礼するデフォルメキャラクターのスタンプが返ってきたことを確認して、琴音はスマホを枕の脇に投げ出した。


 実に突然に眠りを妨げてくれたものだ。


 けれど、不快はとうに去っていた。


 由那は生物部のグループチャットに文章を投下するのではなく、自分ひとりを選んで連絡してきたのだ。それは見方を変えれば、不安を抱いたとき直ちに自分を頼ってくれたということでもある。


 心臓がわずかに鼓動を早めていた。


 こういうやりとりも、たまには悪くない。



     ◇ ◇ ◇



 結論から言えば、琴音の予想したとおりであった。


 地震は来賓室の120cm水槽にも、理科準備室の水槽にもびたいち影響を及ぼしていなかった。登校してすぐ確認に赴いた琴音は、来賓室の前で由那と鉢合わせ、水槽たちの無事を二人の目で確かめたのである。


「――なーるほど、地震対策ねぇ」


 そして放課後。


 いつものごとく第二理科室に集まるなり由那が切り出した「もっと大きな地震が来たらどうしよう」の言葉を受けて、千尋は腕組みして天井を仰いで唸るのだった。


「学園祭の準備どうすっかって話をしようと思ってたんだけどなー」


「残り三週間を切っていますからね。……とはいえ災害はいつやって来るかわかりませんし、備えをしておくことは大切ですわ」


「まあ、そりゃ正論だねえ……」


 千尋としては「120が倒壊するようなのはそうそう来ないだろ」というのが本音だろう。理科準備室の二本の水槽にしたところで、同じラックの上下に重ねて設置している以上かなり安定しているはずだ。


 しかし――


「なにしろ災害大国だもんなー日本。熱帯魚に興味あっても水槽置けないって人よくいるけど、理由聞いてみるとそういうところだったりすんだよな」


 直接的な倒壊ばかりがリスクでないことを思えば、たしかに由那や莉緒の言うとおり、無策で通すわけにもいくまい。


 千尋は後ろ頭をばりばりと搔きながら、


「えーと学園祭の出し物、計画書の提出デッドラインっていつだっけ?」


「本番の二週間前」


 答えたのは佐瀬先生だった。


「つまり来週いっぱいよ。どうせ今すぐ取りかかったって大がかりな企画はできないんだし、地震対策のほうを優先しちゃったら?」


「――っすね。なんなら今晩にだってヤバいのくる可能性あるわけだもんなー」


 千尋の肚も決まったらしい。彼女は部長の顔で一同をぐるりと見回すと、決然たる口調で宣言した。


「そんじゃ……今日のテーマは『倒れない水槽の作り方と、倒れちまったときに備えての危機管理』だ。スパッと対策講じて、心おきなく学園祭の話に移ろう!」


 もちろん、異論が出るはずもないのだった。

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