第103話 どうしたってトップヘビーになるんだな
そもそも何が厄介かというと、水槽台よりも水槽のほうが圧倒的に重いことなんですよね――テーマが地震対策と決まるなりそう口にしたのは莉緒だった。
「わたくしや小清水さんが使っている60cmレギュラーでさえ、水で満たしたら六十キログラムを超えてしまいますから。それよりも大きな水槽なら尚更です」
「水槽、水槽台の上に置くわけだもんねえ。要するにどうしたってトップヘビーになるんだな」
後を引き取った千尋がぼやく。
実際、アクアリウムが大地震に弱いとされる最大の原因は「重心の高さ」だと琴音も思う。水を入れた水槽の重さは軽度の揺れに際して頼もしい反面、大きな震度に晒されたときは仇となるのだ。
「どうしてもそういう構造になるなら、手の打ちようがないってこと?」
由那の声が上擦る。そもそも午前二時の地震にすぐさま反応してLANEを送ってきたあたり、不安は相当なものらしい。
――ま、べつにおかしな話じゃないけど。
千尋も口にしていたとおり、一般人が魚に興味を持ちながらも飼育を始められない理由の一つが災害だ。本邦には地震もあれば台風も来る。そしてインドアな趣味であるがゆえに、被災したときには被害が深刻になりやすい。
何より、由那は早くもうめぼしに深い愛情を注いでいるように見える。
それはそれで素晴らしいことだし、結局のところ今回の相談はその愛情が背景になっているのだろうとも思う。
「――手ならあるぞ」
琴音は、つとめて落ち着いた声音で介入した。
「水槽台と壁を固定したらいい」
「そういう道具があるの?」
「いや、水槽用ってわけじゃないけど。ホームセンターとか百均とかで売ってるだろ、家具を倒れないようにするためのストッパー。ああいうやつでいい」
「あ……なるほど」
「一応言っとくと、床との間に噛ませて壁側に傾かせるやつじゃダメだぞ。水槽載せるんだから」
ブツはタンスやロッカーではなく水槽台なのだ。上に水槽を置くことが大前提である以上、接地面の水平は崩せない。重心を壁側に傾けたが最後、たとえ地震で倒壊しなくても水圧で水槽自体が壊れかねないからだ。
「壁とくっついてる面を留めるやつがいいんだよね。……でもコトちゃん、ああいうのってネジ式じゃない?」
「ん?」
「他にどうしようもなければ、うめぼしのためだからやるけど……」
「――ああ、そうか、アパートだもんな」
こくりと由那が頷く。親のお金で賃貸アパートを借りて暮らしている彼女としては、壁に穴を開けるのはできるだけ避けたいのだろう。
わからない話ではなかった。
たしかに琴音がストッパーと聞いて一番に連想するのもネジで留めるタイプの製品だし、実際に使っているのもそれだ。
しかし、琴音がネジを使っているのは実家暮らしだからに過ぎない。巳堂家の大人は父も母も壁紙に無頓着で、カレンダーや時刻表を貼り出すときには画鋲だってビシバシ使う。
そういう家で過ごしているのでなかったら――たとえば大学に進んで、夏休みに二人で語ったように由那とアパートでルームシェアすることになったなら。
自分だって当然、他の選択肢をとる。
「心配ないよ」
他の選択肢は、ある。
「粘着テープ式も売られてる。ほんとに効くのかって思っちゃうかもしれないけどさ、今のテープの粘着力って強いんだ」
琴音の脳裏によぎるのは、家事代行のバイトで回ったいくつもの家々。もちろん賃貸の住宅や部屋も数えきれないほど巡ったし、そうした物件の住人が粘着テープ式のストッパーを使っていたことは印象深い。
というのも、実は取り付け作業を頼まれたことがあったのだ。日常で使うセロハンテープやガムテープとは粘着力が段違いで、琴音がちょっと力を込めて揺らしてみても剥がれる気配がないほどだった。
「――あと、来賓室の水槽にしても由那の部屋の水槽にしても、台はキャビネットだろ。使わなかった砂とか石とかを中に入れとくだけでも効果あるぞ」
「重りにするってこと?」
「そ。重心が高いのが問題なんだから、下げてやればいいんだ」
わざわざ重りにするためだけに砂や石を買ってくるのは馬鹿馬鹿しいから、実際に仕込める量など知れている。どのくらい意味があるのかと訊かれれば「やらないよりはマシ」と答えることになるだろう。
それでも、相手は災害なのだ。
さして手間を要する方法でもなければランニングコストだってかからないのだし、僅かな差が被害の有無や大小に関わるのなら、やっておいて損はあるまい。
「揺れへの対策はこんなところか。あとは水がこぼれたとき電源がショートしないように、コンセントを水槽台の足元から離しておくとかかな」
「つーか、床に置かねーのが基本だろ」
千尋であった。腕組みして虚空を睨み、
「タイマーで管理するなら壁掛け式使って高い位置につけとくのがいいよ、来賓室でやってるみたいに……って、小清水ちゃんのとこは全部マルチタップだっけか」
頭の中で小清水の部屋の間取りを思い起こしているのだろう、千尋はそのまましばらく唸った。
「――そうだ。たしか水槽の隣に本棚あったっしょ?」
「え、うん。あるよ」
「んじゃ、タップは本棚の上に置いたらいいよ。床よりは危なくねーから」
由那がうんうんと頷きながらスマートフォンを操作して、ここまでのアドバイスをメモしはじめる。少し懐かしい光景だなと琴音はかすかに口角を上げる。
やがて画面をフリックする由那の手が止まったとき、次の言葉を発したのは莉緒だった。
「災害の水槽への影響と言えばもう一つ……停電への対策も欠かせませんよね」
たしかに、と琴音は首肯。
「コンセントの位置なんて話になるのも、つまりは電気を使うからだしな」
アクアリウムの歴史は中世――いや、定義によっては古代まで遡れるという。そんな昔に電動の設備が存在したはずはないから、魚を飼うこと自体は当時の技術でも可能だったのだろう。
だが、もうそんな時代とは違う。
フィルター。ヒーター。照明にエアーポンプ。いずれも電気を通さなければ稼働しないものだ。圧倒的な利便性と引き換えに、現代のアクアリウムは電力なしには成立しない趣味となってしまった。
停電は魚の命を脅かすのだ。
すべての器具が止まった事態を想像したのか、由那がぶるりと身を震わせた。
「ど、どうすればいいの?」
「とりあえず、まずはアクアリスト自身が冷静になることだな」
深夜のLANEが改めて想起された。
ずいぶん慌てた様子だと感じたのは、きっと間違いではなかったのだろう。地震や停電に晒されれば誰もが動揺するものだが、由那の場合は他人と比べてやはり敏感なのかもしれない。本当に小動物みたいな子だ。
「怖がらなくていい」
けれど、不安に対処するすべはある。
「やりようはある。ちゃんと教えるから、覚えて帰りなよ」
何をしたらいいのか正しく知れば、非常時を恐れる気持ちも減るはずだ。琴音はそう信じている。
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