第104話 ありがとね、コトちゃん

 教わった知識を役立てる機会は、奇しくも部長が口にしていたとおり、当日の晩にやってきた。


 そのとき由那は夕食を終えたあとの食器を洗っていて、拭き終えた皿を水切りトレーに入れんとしていたところだった。最後の一枚をトレーに置いて手を放す、まさにその瞬間に事は起こった。


 閃光。さほどの間もなく轟音。


「ひゃああっ!?」


 落雷だ。たぶん市内だろう。


 夕方あたりにはもう天気が傾きはじめていたし、佐瀬先生からも部活を早めに切り上げて帰るようにと指示があったほどだから、雷が鳴るくらいはあり得ると由那も覚悟してはいた。それでも、いざ近くに落ちてみるとやはり恐怖を禁じ得ない。


 縮こまった体をゆっくりと起こして、目を開けた。


 目の前が真っ暗になっていた。


 比喩でも何でもない、星明かりのない夜の闇が部屋の中に出現していた。


「て、停電? ブレーカーが落ちちゃったのかな」


 ポケットからスマートフォンを取り出し、懐中電灯アプリを起動する。たちまちLEDが輝いて、あたりに光を投げかけはじめる。


 多少なりとも暗闇が払われたおかげだろう、気は幾分楽になった。が、余裕を取り戻したその胸に、別の感情が即座に滑り込んでくる。


 ――なんか……いつもと違う?


 ――懐かしい感じもするけど……。


 違和感、あるいは既視感。奇妙な感覚の正体を探った由那は、停電によってもたらされたひとつの事実に思い至る。


「そっか。静かなんだ」


 上部フィルターの稼働音が聞こえない。


 震動するポンプの唸り声と、排水口から水槽へと落ちてゆく水の音。毎日欠かさず二十四時間にわたって響き続けていたアクアリウムの音色が、電気の供給が途絶えたせいで止んでいるのだ。


 少し前までは当たり前だったはずの静けさを、今は非日常だと感じている。


「……アクアリストになったんだなあ、わたし」


 千尋や莉緒も。そして琴音も。今は同じ暗闇の中にいるのだろうか。


 ――きっと、そうだよね。


 LANEのグループチャットは沈黙を保っている。


 落雷が原因の停電なんて局所的なものだろうから、もしかすると三人は普通に過ごせているのかもしれない。しかし由那には、琴音たちが事態に気づいていないわけではないように思えた。


 皆もまた、停電から各々の水槽を守るべく奮闘している最中なのだ。そうに決まっている。


「……うん! わたしもがんばるぞー!」


 言葉を交わさなくても、一緒だと信じれば勇気が出た。


 由那は勢いに任せてまずブレーカーを確かめる。予想したとおり停電は一瞬だったようで、スイッチを上げた途端に部屋の照明が復活した。


 ――けど、


 外では雷が未だに鳴り続けている。いつまた落雷があるかわかったものではなく、天気が回復するまでは電気を使わないほうが賢明と言えそうだ。


 由那は部屋じゅうの家電のコンセントを抜いて回ると、クローゼットからビニールシートを持ち出して、いよいよ60cmレギュラー水槽の前に立った。


「うめぼしは……特に変わりなしだね」


 もとよりこの時間帯には照明を切っている。フィルターによる水流の有無も水底にまでは影響しないようで、赤褐色のフグはいつもどおり顔半分を砂に埋めて上を見つめる姿勢のままだ。


 わたしよりのんびり屋さんだねえ、と由那はにんまり口元を緩める。


「よし。まずは……」


 スマホのメモアプリを立ち上げる。今日作ったばかりのファイルを開けば、そこには部活時間に三人のアクア仲間から教わったことが書いてある。


「注意することその一、水質!」


 ――フィルターが止まるってことは、濾過槽にいるバクテリアのところに新しい酸素が届かなくなるだろ?


 琴音の説明が耳の奥に蘇る。


 ――フィルター内で繁殖するバクテリアって、厳密に言えば大半が好気性バクテリアなんだ。


 ――好気性っていうのはつまり、酸素を必要とするってこと。


 ――酸素はバクテリアに消費されていくわけだから、水の循環が止まったままだとそのうち底をついちゃうよな。


 出会った初日に教わったことにも通じる話だった。あのとき「濾過の仕組みは絶対に頭に入れておかなきゃいけない」と口にしていた琴音。その言葉のとおり、一番大切な知識を最初に授けてくれていたのだと改めてわかる。


 酸欠によってバクテリアが死滅すれば濾過システムは崩壊してしまう。そうして水質が悪化すれば、魚の調子も時が経つごとに悪くなってゆく。


「バクテリアさんたちを死なせないようにするには、濾材が浸かってる水に酸素を取り込ませればいいわけだから……」


 由那は上部フィルターの蓋を取り、散水トレーを外した。


「コトちゃんは『上部はもともと密閉構造じゃないから蓋開けるだけで当面はOK』って言ってたけど……」


 アプリを切り替えてお天気情報を確認してみる。最新のデータを見る限り、どうやら雷雲が去るのはまだ先らしい。


「これだと、ちゃんとやったほうがよさそうかな」


 決めるが早いか物理濾過用のマットをひっくり返し、隠れていた濾材を引きずり出す。床にビニールシートを敷いて、水槽台のキャビネットを開けてバケツを引っ張り出し、バケツに濾材を突っ込んだ。


「フィルターに入れたままでもできないことはないけど、やっぱりバケツのほうがやりやすいもんね」


 エキスパートホースの出番である。サイフォンの原理を利用して水槽からバケツへと水を送り、濾材が浸るまでバケツの水位を確保する。


 あとはテキトーなタイミングで水をかき回してやれば、空気との接触面から酸素が水に取り込まれ、バクテリアが窒息する心配もなくなるだろう。


「次! 注意することその二、水温!」


 莉緒の助言を思い返す。


 ――停電中には当然ながらヒーターも止まります。


 ――加温ができなくなるので、秋から冬にかけてが特に危険でしょう。


 ――今の時期はまだ暑さが残っていますから、さほど問題にならないかもしれませんが……とはいえ水温の変化が緩やかであるに越したことはないので、一応対策をおすすめしますわ。


「急に変化させるのがよくないんだから、お湯を注いだりしちゃダメなんだよね。夏場に氷を入れちゃダメなのと同じだから、理屈はすんなりわかるかな」


 とはいえ、理解が及ぶのと実際に対処できるのとは別だ。


 湯を直接注ぐのはタブー、断熱材や発泡スチロールの持ち合わせもない。ならばいったいどうすればよいのか。


「あっ、そうだ。わたしの毛布!」


 そもそも自然環境下なら夜には水が冷たくなるはずだ。ならば緊急時もそれに倣って、無理に加温して温度を保つのではなく、できるだけ水温が下がるスピードを抑えるのがいい。


 由那はベッドから毛布をひっぺがして、ぐるぐると水槽のまわりに巻きつける。


「これでいいよね」


 保温効果は自分の体で実証済みだ。


 由那はひとり頷いて、メモの最後の項目へと視線を移した。


「注意することその三、溶存酸素!」


 千尋の補足が脳裏によぎる。


 ――おっと、詰めが甘いぜコト。おまえのギンガはスネヘだから意識しなくていいんだろうけどさ、小清水ちゃんのうめぼしはそうじゃねーだろ。


 図星だったのだろう。琴音はハッとして説明を追加してくれた。


 ――ごめん由那。たしかにこいつの言うとおり、もう一つ押さえとかなきゃいけないことがある。


 ――上部フィルターにしてもエアーポンプにしても停電したら止まるんだから、水槽内だってエアレーションされないってことだ。溶存酸素は魚や水草の呼吸で減っていく。


 ――酸素石とか、電池で動くタイプのエアーポンプとかを準備しておくといいんだけど……もしそういうのを買う前に対策しなきゃいけなくなったら、人力でも何でもいいから水を揺らして水面の表面積を増やすんだぞ。


「ギンガちゃんはいつも水面まで空気吸いに行ってるんだもんね。コトちゃんがうっかりしちゃうのも無理ないかも」


 アクアリスト同士であっても、飼っている魚種が違えば重きを置くべき事柄も違ってくる。そのことを見せつけられた瞬間であった。


「酸素石、こんどから用意しておこうっと」


 今日ばかりは自分の手でエアレーションしなければならない。


 由那は玄関から自転車用の空気入れを持ってきて、先端にチューブを繋いだ。チューブを水槽の中に入れてやれば、人力エアレーションが可能になるだろう。


 ――水質維持。


 ――保温。


 ――エアレーション。


 対策を施すべき全ての事項はこれでクリアだ。あとは雷が収まるまで作業を続ければいい。


 安心しかけたそのとき、スマホが鳴った。


「LANE? ――あ、コトちゃん!」


 グループチャットにメッセージ。送り主は琴音で、「無事か?」というテキストに画像ファイルが添えられている。


 何の画像か一瞬わからなかったが、よく見れば琴音の自室の90cm水槽だ。断熱材で囲われていて、下方に写り込んでいる水槽台のおかげでかろうじてアクアリウムの写真だと見て取れる。


 たちまちのうちに既読がついて、千尋と莉緒が似たような写真を上げてきた。


 再び、着信。


〔ことね:由那は大丈夫か? ――現在〕


 シンプルな文面から琴音の心遣いが伝わってくるような気がした直後、由那は自分の体のこわばりが解けていく感覚を覚えた。


 空調も止まっていて、部屋はだんだんと涼しくなっているはずなのに、どうしてかさっきまでよりもぽかぽか暖かい。


「ふふっ……ありがとね、コトちゃん」


 由那は水槽に背を向けるようにして中腰になると、スマホのカメラを自撮りモードにしてシャッターをタップした。


〔由那:ばっちりだよ! ――現在〕


 投下した写真には、瞬く間に既読といいねが三つついた。

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