第80話 勇気が出たよ!
いきなり「例外」であるバジェットガエルに触れてしまったせいで頭から吹っ飛びかけてしまったが、革津の説明によれば「ディープジャングル」は本来ネイチャーアクアリウムに強いショップのはずである。
その言葉に嘘はなかったようで、水槽スペースの壁際は一面まるまる水草売り場に充てられていた。
手乗りサイズの鉢に植えられた、芝のような水草。
赤く細長い茎から緑色の葉を広げる水草。
広い葉っぱに網の目のような脈を走らせる水草。
水面まですらりと伸びたニラのような長い水草は、琴音のスネークヘッド水槽にも植え込まれていたやつだ。
「はー、水草ってめちゃくちゃ種類多いんだなぁ」
「どれもすごく綺麗ね……」
理沙が感服したというように声を発し、詩乃が魅入られたようにうっとりと呟く。
二人の漏らした感想には小清水もまったく同感だ。多様な植物の美しさに目移りしてしまう一方で、この中からどれを選んで植えるべきなのか見当もつかない。
――翠園寺さんならうまい組み合わせが思いつくかな。
以前部屋を訪れたとき見た莉緒のレイアウト水槽を思い出す。使われていた水草の種類はおそらく両手の指の数ではきくまい。それでいて散らかった感じはなく、統一されたテーマのもとに整えられている印象を受けた。
「革津さん、写真撮っていいですか?」
「一応ここにもコケ取り用の生体はいるのでぇ、フラッシュは焚かないでくださいねぇ。SNSに上げてくれるなら店の名前をハッシュタグにぃ――」
「あ、その。友達がネイチャーアクアリウムをやってるので教えてあげたくって」
「あらあらぁ、大歓迎ですよぉ。ぜひオススメしちゃってくださぁい」
あまり何枚も貼りつけても逆にイメージをぼやけさせるだけだろう。小清水は少し迷って、ラックの上段に置かれていた120cm水槽をレンズに収めてシャッターをタップした。
そこに並べられていたのは、ストラクチャー。
形のよい流木を見繕って観賞用の水棲コケ――ウィローモスというらしい――を活着させた、店のセンスを前面に出した商品だ。
革津に謝辞を告げて「ディープジャングル」を出た後は、予定どおりに話題の恋愛映画を鑑賞してから解散となった。
時刻は十七時を回ったあたり。
もう少し遊ぼうと思えば遊べない時間ではないが、小清水の胸の内には今や、どうしても今日中にやりたいことが宿ってしまっている。理沙と詩乃にそのことを告げると、二人は快く送り出してくれた。
「久しぶりに由那っちと遊べてよかったよ。自分だけじゃ絶対行かないようなとこにも行けたしな」
「今度集まるときは水族館にでも行ってみましょうか。アクアリウムも奥が深そうで面白いじゃない」
亜久亜駅の改札を抜けた先、それぞれの利用路線が分かれる岐路で、理沙と詩乃はお世辞でなく楽しそうな面持ちを見せるのだ。
そんなクラスメイトたちに負けないくらい朗らかに笑って、小清水は去り際、振り返って大きく手を振った。
「二人とも、今日はありがと! おかげで勇気が出たよ!」
理沙と詩乃は揃って首を傾げたが、小清水はそれ以上何も言わずに背を向ける。
――二人のおかげで勇気が出た。
偽らざる本音だ。
アクアリウムを知らない彼女たちに魚の写真を見せて説明をしたり、共にアクアショップの水槽を眺めたりしているうちに、琴音が普段どんなに心を配ってくれていたのか重ね重ね気づかされた。
――やっぱり巳堂さんを夏祭りに誘おう。
――今日なら巳堂さん空いてるんだもん。
ホームへと続く階段を下ったタイミングでちょうどやって来た電車に滑り込んで、反対側のドア近くの手すりに掴まってほっと一息。
冷房の効いた車内にもかかわらず胸のあたりがぽかぽかと火照るのは、我知らず早足になっていた証だろうか。
◇ ◇ ◇
十七時台も四分の三に差しかかろうかという頃、琴音は換水の儀を執り行っている最中であった。
三日ぶんの残餌とフンで濁った水をトイレに捨てて、新しい水を汲んで部屋に戻る。バケツを床に下ろし、水質調整剤を取り出そうとキャビネットの扉を開けたところでスマホが鳴った。
LANEの着信音だった。
「誰だ、儀式の邪魔をするのは――って、小清水さんか」
独り言を紡ぎながら画面のロックを解除してみれば、生物部のグループチャットにメッセージが届いている。
小清水からのメッセージは、今日このグループチャットに何度となく投下されてはいた。どうやら地下街のアクアショップにも足を運んでみたようで、モスつき流木の写真がアップロードされたのが三時間ほど前。即座に反応した莉緒との密なやりとりがログに残されている。
「次は何の写真だ? ……あれ」
しかし、今度は写真ではなかった。
〔由那:巳堂さん、今日これから会えるかな? ――現在〕
〔由那:お昼に巳堂さんから聞かれたとき断っておいてごめんなんだけど ――現在〕
予想外の名指しに琴音は眉根をきゅっと寄せる。
季節は夏真っ盛りである。夕方と称するべき時刻にもかかわらず、空の暮れる気配は未だない。会おうと思って会えないことはないが――。
水槽のガラス蓋の隙間にしっかりとウールがねじ込まれているのを確認してから、琴音はスマホをフリックする。
〔ことね:いいけど、どこで落ち合う? ――現在〕
〔由那:外、見て ――現在〕
ちなみに琴音の部屋の窓を開けて見下ろせる「外」とは、巳堂家の裏側に作られた申し訳程度の庭である。もちろん、そんなところに小清水がいるはずもないことは考えるまでもない。
部屋のドアを開ける。半らせん状の階段を下って廊下を横切り、サンダルを突っかけて玄関の扉を開けた。
そこに、息を切らせた小清水が立っていた。
「えへへ……ほんとはもっと早くLANEしてから来ようと思ってたんだけど」
小清水がはにかんだように、紅潮した頬をほにゃりと緩める。
「この時間なら家にいるだろうし、家の前でちょっとお話するくらいなら大丈夫かなって。押しかけちゃってごめんね?」
「や、それはいいけど。今日会おうって最初に言ったの私だし」
まあ、いらない心配をしただけだったけどな――と琴音は口角を上げてみせる。すでに小清水が冷却ファンのセットアップを終えていた以上、こちらの用事はなくなったと言っていい。
小清水の様子を改めて眺める。
おそらく辰守駅から走るか早歩きかでここまでやって来たのだろう、薄手のブラウスから覗く鎖骨のラインを汗の滴が滑り落ちていった。まだ昼間の暑さが残る時間帯だというのに、何をそこまで急ぐことがあったのだろう。
「――あのね、」
息を整えた小清水が口をひらく。
「わたし、お盆に帰ってこないかってお父さんとお母さんに言われてて」
「それは……行ってきたらいいんじゃないか。盆なら生き餌のトリートメントも終わってるし、エビなり稚ザリなり入れておけばうめぼしは勝手に食べるだろ。生物部の水換え当番は、ちょうど私もバイト休むから穴埋めできるし」
素直にそう思った。せっかく休みを取るのだから小清水と遊びたい気持ちもあったが、親子の事情に口を出すほど野暮ではないつもりだ。
もともと小清水がアクアリウムを始めたのも「アパートでひとり暮らしするのが寂しい」というホームシックじみた理由からだ。うめぼしのおかげで孤独でなくなったとはいえ、やはり長い休みのときくらい家族のもとに帰ったほうがいいだろう。
ところが、小清水は首を横に振った。
「そうじゃなくってね。――あのね、わたしの実家って栗鼠追なの」
「なんだ、わりと近いじゃん。花火大会が有名だよな……行ったことないけど」
「あ、だったらちょうどいいかも!」
その瞬間に小清水の瞳が輝いたのは、傾ききらない太陽を反射したからではなかったように琴音には思えた。
「巳堂さん、よかったら一緒に来ない? 最近アルバイトが忙しかったのも夏祭り楽しんだらリフレッシュできると思うし……お父さんとお母さんにも、巳堂さんのこと紹介したいから」
「――はい!?」
小清水の言うことだ。深い意味合いは断じてあるまい。
そうわかってはいても、鼓動が早まるのを抑えることはできなかった。
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