第81話 今は、楽しもう
栗鼠追町は県南の盆地に位置する三万人規模の町で、亜久亜市から足を伸ばそうとしたら快速電車で二時間ほどかかる。
旅行と呼ぶには大それている気もする距離感だが、花火を見るとなると頃合は当然夜なのであって、帰りはどんなに早くとも二十時を過ぎる計算だ。その時間から走ってくれる電車など過疎路線に存在するはずもなく、したがって琴音が小清水の帰省について行こうとしたら泊まりを覚悟しなければならない。
当然、許しを得る必要があったのだが――
「親に泣かれた」
「親に!?」
栗鼠追駅へと向かう電車の中で、琴音は実にむっつりとした表情で窓の外を眺めながら、事の顛末を小清水に語った。
「父さんが妙にそわそわして『その友達っていうのは同級生なのか?』なんて訊いてきてさ。隣のクラスの女子だって答えたら露骨にほっとして収まったんだけど」
「だけど?」
「今度は母さんが『アンタに千尋ちゃん以外の友達ができるなんて!』って泣き出して」
「…………」
「心配されるどころか、何が何でも行ってこいって感じで送り出されたよ」
「それは何て言うか、その~……心配してくれてた結果って気がするかなぁ」
つまり、まったく反対されることがなかったのだった。
頭上の棚に置いたキャリーバッグの中には、琴音自身が準備した荷物の他に、せっかくだから持って行けと半ば強制的に持たされた浴衣が詰まっている。母が昔着ていたものらしく柄も時代相応だが、今回のためだけに新調するわけにもいかなかったのだから贅沢は言えない。バイト代の用途は別にあるのだ。
列車がトンネルに入った。
琴音は車窓から視線を剥がし、小清水へと目を向ける。
――今日、ちょっと大胆?
これまでの小清水の私服姿といえば、ふわふわとした印象を与えるガーリーなコーディネートがほとんどだった。例外はガサガサのときに着てきた軽装で、今日の装いはどちらかといえばそれに近い。
上はやや緑がかったライトグレーの三分袖。シンプルな無地のカットソーでありながら雰囲気が柔らかいのはたぶんサイズが大きいせいで、プチハイネックの首回りがダボッと緩んでいることも相俟って逆説的に本人の小柄さを際立たせている。
そして、下腹のあたりまで垂れた裾から覗くのはデニムのホットパンツである。ガサガサのときと異なるのは足元にハイソックスを穿いていることで、これは考えるまでもなく濡れる心配がないことが理由だろう。
カットソーの短い袖から伸びる
「――ん、どした?」
「巳堂さんがわたしを見てたから、何かなぁって」
うわバレてた。
「いや、ええと……腕細いなと思ってさ」
琴音は一瞬で後悔した。いったい自分は何を口走っているのか。
幸いなことに、小清水が気にした様子はなかった。
「そうかなあ? これでも前より逞しくなったつもりなんだよ、ほら」
「ほらって言われても」
ぐっと二の腕に力を込めてみせる小清水だが、琴音の目にはまったくシルエットが変わったように見えない。
「できてないじゃん、力こぶ」
「むぅ……あっそうだ、触ってみたらわかるよ!」
「は?」
すると小清水は、有無を言わせぬ早さでもう片方の手を伸ばし、琴音の右手を取ってくる。
温もりが手の甲を包んだと思った。
直後、琴音の指先は小清水の二の腕へと導かれていた。
ぷにっ。
絹で織り上げられたかのような柔肌に指の腹が軽く沈んで、少し押し込んでみたところで筋肉のしなやな反発が返ってくる。
「――っ」
とっさに手を引いた。
どう言葉を発していいのかわからない。
指に残っているのは張りのある肌のすべすべとした感触と、目の前の女の子が持つほんのりとした体温。その触感と温感が意識した途端に熱へと化けて、琴音はまるで火傷でもしたかのように反対側の手で指先をくるむ。
「ね、ね、ちゃんと筋肉ついてたでしょ? これってバケツ持ち運ぶのが日常になったからだよね。わたしもアクアリストとして成長してるんだよ」
「まあ……師匠としては喜ばしいかな……」
何とか返事を絞り出しつつ、琴音は激しく波打つ心を落ち着けようと必死に己の胸中を宥める。
――正直、
アクアリウムをやっていると図らずも筋力がつく、というのは琴音も大いに認めるところだ。水換え時のバケツはもちろん、レイアウトをリセットする際などは水槽自体を持ち運ばねばならないこともある。小清水の60cm規格なら空っぽでも六キロ以上はあるし、あらかじめ抜ける水や砂の量にも限度というものがあるわけで、一人で動かそうとしたら相当キツい、というのが経験からくる実感である。
最初に会ったとき二人でセットしてよかったよな、とつくづく思う。
同時に、二の腕に筋肉がつくのを喜ぶのは女子としてどうなんだ、とも思う。
「……バケツくらいにしときなよ、せっかくきれいな腕してるんだから。あんま太くなっちゃってもイヤだろ?」
「ん~、でもうめぼしのためにもワガママ言ってられないよ。一人でできることは多くしていかなきゃ」
「体格的にどうしても無理ってこともある」
列車はとっくにトンネルを脱していた。窓の外には
「卒業するまでは今のアパートにいるんでしょ? 一人じゃ危ないと思ったらLANEしなよ、私んちはそんな遠くないんだからさ」
答えがなかった。
「……小清水さん?」
まさかこんな急に寝てしまったということはあるまい。琴音は不審に駆られ、再び景色から目を背けて小清水へと視線を向けて、
呼吸を忘れた。
「……えへへ」
見やったそこに、ひどく真剣な笑顔が浮かんでいた。
「ごめんね。ありがとうって言いたかったんだけど……こうやって一緒にお話できるのも卒業までなのかなぁって考えたら、なんだか寂しくなっちゃって」
「――あ……」
眉尻を下げて、それでも小清水はおかしそうに笑う。
「LANEだって電話だってあるのに、大げさだよね」
「いや……悪い。私たちまだ一年生なのに、気の早い話をしちゃったな」
とはいえ、小清水の言うとおりであることも否定しようのない事実だった。
LANEで繋がることはできる。電話で声を聴くこともできるし、なんならテレビ会議のアプリをインストールして互いに顔を拝むことだって可能ではある。
けれど、こんなふうに同じ時間と空間を共にすることは――ずっとは続けられないに決まっている。
「……とりあえず、さ」
琴音は、痛みに似た疼きを溜め息に乗せて吐き出した。
前後と通路の向こう側を見回して迷惑にならないことを確認し、傍らの窓をわずかに開ける。夏らしい爽やかな風が吹き込んできて、琴音と小清水の髪を揺らす。
「今は、楽しもう」
「そう……だね。今しかできないことは、楽しまなきゃ損だよねっ」
気分を入れ替えるにはちょうどいい涼風だ。
これは断じて先送りではない、と琴音は胸中でひとりごちた。指の先はまだじくじくと熱を宿して燻っている。
――バイト、冬はほどほどにするか。
いつまでも同じ場所には留まれず、小清水や千尋や莉緒との付き合い方も時とともに変わってゆくのかもしれない。
だとしたら、尚更。
いつかキラキラ輝く思い出として振り返れるように、彼女たちとの関わりを今、目一杯満喫しておきたい。
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