ⅱ.フェイバリットをさがして

第9話 たしか……パロットファイヤー?

 翌日の昼休み、小清水こしみず由那ゆなの姿はまたしてもA組の教室にあった。


 新しい友人である巳堂みどう琴音ことねの席は扉から二列目の真ん中だ。その前席に位置取るのが彼女の幼馴染だという天河あまがわ千尋ちひろで、小清水が近寄ると、ちょうど空いていた廊下側の席を借りるよう千尋から勧められた。


「でも、いいのかな勝手に」


「へーきへーき。そこの男子は体育館かどっかで駄弁ってるだけだろうし、どーせ戻ってきても小清水ちゃんになら快く貸すに決まってんだから」


「わたしになら? よくわからないけど……じゃあ、お言葉に甘えて」


 椅子を二人のほうへ向けて腰掛ける。


 小清水を呼び出した張本人である琴音は今しがたのやりとりを胡乱な目で眺めていたが、ひとまず気を取り直したのか、鞄を漁って薄い本を一冊取り出した。


 ひと目見てわかる。雑誌である。


 表紙には大小さまざまなサイズの魚の写真が並んでいる。おでこに巨大な瘤をくっつけた青紫の魚。翼のようなヒレを上下に伸ばす縞模様の魚。絵の具で塗ったかのようなビビッドな体色をした丸い魚。


 どの子も何となく雰囲気が似ているな、と小清水はぼんやり思った。それもそのはずで、下のスペースには極太のゴシック体で「シクリッド・コレクション」と書かれている。ということは写真の魚たちは皆「シクリッド」というグループに属しているわけで、つまりは親戚みたいなものなのだろう――と小清水は理解する。


「月刊アクアキューブ。早い話がアクアリウムの専門誌なんだけど」


「へえ、こういうのも出てるんだね」


「毎回違うテーマで特集組んでくれて、けっこう勉強になる。私も千尋もバックナンバー何冊か持ってるから、小清水さんが迷惑じゃなければ貸せるんだ。どうかな?」


 琴音はページをめくり、中身を小清水へと向けた。開かれた誌面には三匹の魚が泳ぐ水槽と、その持ち主らしき男性の写真が掲載されている。


 と、隣で千尋が感嘆の声をあげた。


「このオッサンめっちゃいい表情してんなー。毎度思うんだけどさ、こういう雑誌に載る人ってどうしていつもドヤ顔なんだろうな?」


「いや、おまえこそ取材入ったら絶対ドヤ顔するタイプだろ」


 千尋と話すときの琴音には、小清水相手に見せるような遠慮はまったくない。気の置けない間柄というやつなのだろう。知り合って日が浅いうえ一方的に世話を焼いてもらうばかりの小清水としては、流石にまだそこまで近づくのは難しい。


 小清水は雑誌に目を戻す。飼い主のおじさんのドヤ顔はさておき、魚のほうには見覚えがある。


 風船のようにぷっくり膨らんだ赤い体、ちょこんと突き出た頭、くりくりとした大きな丸い目に、ハート型のおちょぼ口。雑誌に出ている三匹のほうが色が濃いような気はするものの、間違いなく、琴音と出会ったときに自分が見つめていたあの魚だ。


「たしか……パロットファイヤー?」


「そ。覚えたじゃん」


 琴音がほんの僅かに口角を上げる。


「最初はやっぱりこれがいいかと思ってさ」


 その瞬間に去来した感情を、小清水はうまく言葉に表すことができない。


 が、語彙はなくとも記憶が知っていた。


 たとえば、塾で隣の席についた見知らぬ子が消しゴムを貸してくれたとき。あるいは、町内会の活動中に訪ねた家で思いもがけずお菓子を振舞われたとき。


 小さいときから変わらない。誰かからの好意を受けたとき、小清水の頭の芯はむずむずと疼き、心はふわふわと浮き立つように出来ている。


「……ふへへ」


「な、なんだよ?」


「何でもないよぉ。ありがとうね、巳堂さん」


 わけがわからんといった風に目を白黒させる琴音を前にして、小清水はしばしの間、弾む気分のままにふやけた表情を晒し続ける。




 ――こほん。


 琴音が咳払いをして、形のいい指で誌面を差した。薄いくちびるが動いて抑揚に欠ける声を紡ぎ、ページに掲載されている水槽について解説を加えてゆく。


「パロットファイヤーのいいところは、まず見た目の面白さ。まあ観賞魚なんだから見た目が特徴的なのは当然とも言えるんだけど」


 写真には三匹のパロットファイヤーが写っている。


 寸詰まりの体型に、どこか間の抜けた顔。たしかに琴音の口にするとおり、かっこいいとかキレイだとか言うよりは、面白いとか特徴的だと形容するほうが適切な気がする。


「かわいいよね。お店にいた子たち、わたしが水槽の前に立ったら近寄ってきたの。わたしお魚さんが人に懐くなんて知らなくて、すごいな~と思って眺めてたの」


「で、そこにコトが声かけたわけだ」


 背もたれを抱くような格好で座った千尋が、なるほどと唸りながらがったんがったん椅子ごと揺れる。


「種類にもよるけど、魚って意外と懐くもんなんだよ小清水ちゃん。あたしが飼ってるヤツも、掃除で水槽に手を入れたときとか近づいてくるし」


「私の家にいるのもそうだな。私を見ると石の陰から出てきてダンスするんだ、餌よこせって」


「へぇぇ……犬とか猫みたいだね」


 重ね重ね、魚がそこまで頭がいいとは知らなかった。


 こほん。再度咳払いをした琴音が言葉を続けた。


「見た目以外の特徴は、何と言っても飼いやすさだね。パロットファイヤーの好む水質は弱酸性から弱アルカリ性までで、水温は二十二度から二十八度までの範囲だって言われてる。この環境を用意するのは、はっきり言って何も考えなくても簡単」


「つまり……よっぽど極端なpHにならなきゃ大丈夫ってことだよね? 温度は巳堂さんがくれたヒーターでクリアできるわけだし」


 小清水は、昨日のこの時間にプレゼントしてもらったヒーターのことを思い出す。


 設置はもう済んでいる。


 二人と別れてアパートに帰った後、すぐさま作業を行ったのだ。取り付けた写真をLANEで送りもした。そのとき千尋から「生体をお迎えするまで電気代ケチっときな」とアドバイスを賜ったので、コンセントにはまだ繋いでいないが。


「大丈夫、と考えてもらって構わない」


 琴音は頷き、


「もっと言えば、餌。人工餌に慣れてくれるかどうかで魚の飼いやすさは全然違ってくるんだけど、その点パロットファイヤーはすぐに餌付いてくれるみたいだ」


「人工餌……巳堂さんが買ってたやつだよね」


 褐色の合成飼料が脳裏をよぎった。バクテリアを殖やすため、小清水の水槽にも一粒だけ落としてある。


「――あれ?」


 と、そこで小清水は首を捻った。


「普通は何を食べてるの?」


 質問の意味を考えあぐねたのだろう、琴音が怪訝そうな表情を浮かべた。


 千尋がいち早く「普通」の意味に勘づいた。


「小清水ちゃん小清水ちゃん、普通……っつーか、野生のパロットファイヤーってのはいねーのよ」


「――ああ、普通ってそういうことか」


 ようやく意図を察した琴音が後を引き取る、


「パロットファイヤーは、二種類のシクリッドを人工的にかけ合わせて作られた交雑種なんだ。だから繁殖能力もない。本当にペットとしての魚だから、飼いやすいようにできてるんだよ」


 そこに千尋が補足を加える、


「つってもシクリッドだから、仲間どうしだと喧嘩するって問題はあるんだけどな。――このオッサンよく三匹混泳させてるよな、上手いわこの水槽作り」


 そして、三人は雑誌に顔を寄せる。


 たしかに紹介されている水槽は、水草や流木といった障害物で陰を作っているし、大きな土管が砂の上に寝かされてもいる。


 見栄えにも気を配ったレイアウトだという印象だったが、言われてみると、喧嘩したときに逃げ込めるようにという配慮なのかもしれない。


「わたしみたいな初心者だと、一匹だけにしといたほうが無難ってことだよね。もともとそのつもりではあるんだけど」


「シルエットの全然違う魚だと攻撃対象にしなかったりするから、混泳に向かないとは言い切れないけどな。特にパロットファイヤーなんて大型魚のタンクメイト候補としちゃ有名だし」


「そうなの?」


「まあ、単独飼いなら喧嘩なんて起こりようがないし、無難なのは間違いないよ。ただその場合、60cm水槽だとちょっとガランとしすぎるかもね」


「バランスが難しいんだね。もっと大きくなる子がいいのかなあ……」


 記事には「体長はまだ一〇センチそこそこだが、飼い込んでいくうちに二〇センチほどまで成長するぞ」と、妙に読者にフレンドリーな注釈がくっついている。


 二〇センチ。水槽の幅の三分の一。


 数字の上ではわかるが、実際にどう見えるのかがイマイチ想像できず、小清水は指を顎先に当てて悩みはじめた。


 そのとき、教室の天井近くに備え付けられている四角いスピーカーが「ばつん」と音を発した。


「あ……時間切れだね」


 反射的に漏れた呟きを肯定するかのように、チャイムが響き渡った。

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