第8話 好みが見つかるかもしれない

 支払いを終えて出てきた小清水は、また明日ね、という言葉を残して駅へと歩いて行った。この後の予定はなく、アパートへ戻るのだという。


「――なあコト」


 二人になった帰り道の途中、千尋が唐突に口を開いた。


「小清水ちゃんって、さっきの買い物で道具ひととおり揃ったんだよな?」


「そうだな、とりあえず最低限は」


 琴音は小清水の部屋を脳裏に浮かべる。


 水槽台の上に、60cm規格の水槽本体が載っている。水槽のフレームには上部フィルターとLED照明が取り付けられている。ここまでが昨日までの状態だ。


 そして今日、琴音がヒーターをプレゼントした。さらに今しがた温度計を買ったので水温を測ることもできるし、試験紙を買ったので水質のチェックもできる。調整剤も手に入れたから、水換えも問題なく行える。


「あと一週間、長くても二週間あれば水はまあ出来上がるだろ。そしたらもう生体を選ぶだけだ」


「60cmかあ。何にするのかねぇ」


「パロットファイヤーを金魚と間違うヤツの好みなんて、私にわかるわけないだろ」


 まあ、それこそパロットファイヤーにするかもしれないけどな――と、琴音は幾つかの会話を反芻しながら考える。


 ペット感のある子をドーンとお迎えするのが寂しくなくていい、と小清水は言った。


 パロットファイヤーは育てば二〇センチくらいにはなるはずだ。60cm規格で飼える魚のサイズが概ねそのあたりだから、小清水がご所望の「ペット感のある子」に充分当てはまる。


 しかし、千尋の反応は芳しくなかった。


「パロットファイヤーは飼いやすいし愛嬌あるけどさあ。そこまで素早く泳ぎ回るわけじゃないし、水槽が45cmならまだしも、60じゃ数増やしたくなると思うぜ」


「そうか? サイズ的にはちょうどいいくらいだぞ?」


「コトはレイアウトもけっこうガッツリ組むじゃん。だから狭くなるんだよ。小清水ちゃんがベアタンクとか底砂敷くだけで済ませるつもりだとしたら、あたしならキングコングかフラワーホーンを薦めるね」


 千尋の名誉のために言い添えておくと、彼女はなにも水槽でゴリラを飼うなどという突拍子もない提案をしようとしているわけではない。


 ここで言う「キングコング」とは、「キングコングパロットファイヤー」の略である。その名の通り通常のパロットファイヤーシクリッドよりも体が大きく、最大で三〇センチほどまで成長するという。


 琴音はもう一度、小清水の水槽を思い浮かべる。


 仮想のパロットファイヤーと、同じく仮想のキングコングパロットを入れたところを想像してみる。


「……一理あるな」


「だろぉ?」


 たしかにスペースの広い水景では、活発に泳ぎ回る魚でないなら、三〇センチ近くになる種類のほうが妥当かもしれない。


「まあ、そもそもほんとにシクリッドが気に入るかどうかも分からないんだし、私たちがここで予想してたって仕方ないだろ」


「そりゃそうだけど。――あ」


 千尋は、妙案を思いついたとばかりに手を打った。


「アクアキューブ貸してあげろよ。いろんな魚載ってるし、小清水ちゃんの好みが見つかるかもしれないだろ?」


 千尋の口にした「アクアキューブ」とは、現在ほぼ唯一生き残っているアクアリウム専門の月刊誌の名だ。


「コト、バックナンバーまだ持ってるっしょ?」


「あることはあるけど……私、毎月買ってるわけじゃないぞ。私好みの特集なんて何年かに一回あるかないかなんだから」


「でも、なんだかんだで三ヶ月に一回くらいは買ってんじゃん。それに、載ってないやつは実際にショップ回って見せてやりゃいいんだよ」


 なるほど。


「悪くないかも」


 小清水は初心者だ。迎えた魚の寿命を全うさせてやれる確証は、残念ながら無いと言わねば嘘になる。


 が――それでも、失敗を織り込むのはよくない。


 どうせ最初の一匹だからと雑な決め方をするのではなく、長い付き合いになることを前提にして「本命」を選んでほしいというのが琴音の意見だ。


「千尋、今日はいいこと思いつくな」


「ばーろぉ。あたしはいつだってアイデアマンだぜ」


 からからと笑う千尋。威張るように胸を反らす幼馴染を横目で見ながら、琴音はやれやれとため息をつく。


 千尋がいると助かる。悔しいけれど。



     ◇ ◇ ◇



 鍵を回して玄関にあがり、靴からスリッパに履き替えて廊下を進む。琴音はただいまを言わない。おかえりと声がかかることもない。巳堂家の父と母は共働きで、家に帰ってくるのは日が沈んでからだ。


 階段をのぼって自室のドアを開ける。


 正面に窓。そのすぐ隣に勉強机が鎮座していて、さらにその隣のスペースを90cm規格の水槽が占拠している。


 千尋に指摘されたとおりの水景である。


 川底をイメージして、大磯砂をひいた上から大小まばらの砕石を敷いた。この砕石の絨毯は水槽の左奥が最も分厚い。右前面では大磯砂がすっかり露出していて、まるでグラデーションのように左から右へと、奥から手前へと底材が薄くなってゆく格好だ。岩を組み合わせて造った丘が左側にあることも、左が「上流」で右が「下流」だという印象に拍車をかける。


 そこに緑の彩りを加えるのが水草だ。


 丘の向こうではニラのような長い葉が群生し、水面まで達してシャワーパイプの水流に揺られている。岩の隙間からは色の濃い幅広の草が飛び出し、その手前では雪の結晶のごとく枝分かれした葉が密集、さながら森のような景色を作り出している。


 ワラビの森から突き出るようにして水槽の中心近くへと伸びるのは、あちこち曲がりくねった、棍棒のような太い流木。


 アクアショップにあるような水草中心の水槽には及ばないが、なかなか凝ったレイアウトにできたと琴音は内心満足していた。


「お、来たな」


 主の帰還を見て取ったのだろう。流木の陰から、細長いシルエットの魚が飛び出してきたのだ。


 魚はガラスにへばりつかんばかりに接近し、激しくヒレを動かしながら、右へ左へと踊るように泳いで回る。


「まあ待て待て」


 琴音は口元を綻ばせ、水槽に背を向けた。


 通学鞄を床におろす。


 朝起きたときそのままの、まるで整っていないベッドに敷かれた毛布の上に、ほどいたスカーフをぱさりと落とす。セーラー服とスカートを脱いで、やはりこれらもベッドに放る。


 肌着姿になった琴音は、ふう、と一息。


「……もう暖かいよなぁ」


 暦は五月の上旬。冬にフル稼働した暖房も、その役目を終えて眠りにつきかけている。


 このままでいてもきっと、風邪をひく心配はないだろう。


 ――いや、着るけどさ。


 琴音は最後にソックスを脱ぐと――プライベートでは裸足派なのだ――クローゼットから私服を引っぱり出し、さくさくと着替えを終えた。


 半袖のTシャツと、ダメージじゃないジーンズ。


 水槽に腕を突っ込みやすい服装、というチョイスではあったが、着てしまってからそんな作業をする予定がないことに気づいた。


「……ま、いいか別に」


 琴音は再び水槽に歩み寄った。


 水槽台の扉を開けて、人工餌の袋を取り出す。魚肉やオキアミ、小麦粉、でんぷん等を合成して粒状に成型し、ビタミン類を添加した高栄養の餌である。


 ガラス蓋の隙間から二粒を水面に落としてやると、魚は待ってましたとばかりに食いついた。


 琴音はしばらく食事の様子を見守っていたが、やがておもむろに身を翻して、


「――さてと」


 本棚へと向き直る。


 目当てのブツは最下段に纏めてある。


「まず一冊、よさそうなのを見繕ってやりますか」


 床にぺったりと腰をおろして、琴音は雑誌を吟味しはじめた。

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