第7話 いろいろ理不尽なことが多い
辰守駅で電車を降りて、十分ほど歩くと「AQUA RHYTHM」に辿り着く。
店に入った小清水はまず、およそ千円のソーラーパネル式デジタル水温計をカゴに収めた。コードに繋いだセンサーを水槽内側に伸ばし、吸盤でガラス面に貼りつけるタイプのものだ。機能はシンプルに水温を表示するのみ。温度の記録はおろかバックライトすらないが、小清水曰く「そこがいい」ということだった。
「たくさん機能があっても使いこなせない気がして……」
千尋がうんうんと同意の仕草、
「わかるわかる。あたしが使ってるやつもホントはいろいろできるんだけど、結局最後には水温をチェックするだけになっちゃうんだよなー」
次に小清水は、水質調整剤をカゴに入れようとして混乱した。いろいろな会社がいろいろな用途の調整剤を売り出していて、しかも同じメーカーの製品でも具体的にどこがどう異なるのか分からないものも珍しくない。戸惑うのも無理はなかった。
「ねえ巳堂さん。この、クアドラっていう会社の『コンプリートウォーター』と『アクアガードプラス』と『アンチクロリンプラス』って、どう違うの?」
琴音は返答に窮して、
「昔はプラスじゃなかったんだ」
「えっ?」
「魚のお肌を保護できる『アクアガード』と、カルキぬきの『アンチクロリン』でしっかり役割が分かれてて、両方できる『コンプリートウォーター』が完全版みたいな位置づけだったんだ。今は……」
どれもこれもオールインワンみたいになったせいでイマイチ把握できていない、というのが本音だ。
陳列された商品を凝視する。
アンチクロリンプラスは、カルキぬきに加えて、水にミネラルを添加することができる。
コンプリートウォーターは、カルキぬきに加えて、魚の表皮やエラの保護ができ、なおかつ水に溶けた重金属の無害化までも行える。
アクアガードプラスは、カルキぬき、魚の保護、重金属の無害化ができるほか、さらにミネラルを添加することができるらしい。
「……つまり?」
「アクアガードプラスが一番上位っぽい。ただ、コスパはコンプリートウォーターのほうがいいから、ミネラル添加をどこまで重く見るかだな」
「ちなみに巳堂さんはどれを?」
「私はコンプリートウォーターだね。昔からずっと使ってて、別に不足も感じてないから変えてないだけだけど。――千尋は?」
「あたし? いや、あたしはクアドラの調整剤使ってねーぞ」
あっちだあっち――千尋は首を振ったかと思うと、隣の棚の商品を指で示した。
黄色い容器にパッケージラベル。クアドラ社製品のバリエーションのようにも思えるそれには、よく見れば、たしかに別会社のロゴがプリントされている。
「イーハウスか……外部フィルターのイメージしかなかったけど、そういや出してたな、こういうのも」
琴音はその商品を手に取ってしげしげと見つめる。
イーハウス・フォーオブアカインド。
カルキぬき、魚の保護、重金属無害化――やれることはクアドラのコンプリートウォーターとほぼ一緒だが、こちらはクアドラの調整剤に共通する「クロラミン中和」の代わりに、「白濁りの除去」が効果の一つとして強調されている。
「へえ。立ち上げたばかりは白濁りしやすいし助かるかもな。値段は――」
次の瞬間、琴音は目を剥いた。
「は? 250ミリリットル四五〇円!?」
「安いだろぉ?」
「コンプリートウォーターの半値以下じゃんか! こんなのがあるんなら私にも教えろよ!」
高校生の身からすればコスパは何にも勝る正義である。恨みがましい目を向ける琴音だったが、千尋はどこ吹く風と言わんばかりの態度で、
「んなこと言われてもなあ。昨日今日出た新商品ってわけじゃねーし、コトなら知ってると思ってたぜ? いけませんなぁ自分の習慣に固執しては」
「ぐぎぎぎ……」
二人のやりとりを眺めて小清水は困ったような笑顔を浮かべる。手にしたカゴの中には結局、イーハウス製の調整剤の250ミリリットル入りボトルが放り込まれた。
そして最後に小清水は、当初の目的であった水質検査用の試験紙を手に取った。
「これがいいよね? いっぱい調べられるみたいだし」
「……ああ、そうだな」
クアドラ社の「シックス・イン・ワン」。一枚のペーパーで六つもの要素をチェックできる優れ物である。
調整剤のあれこれは脇に置くとして、この試験紙を世に送り出しているだけでもクアドラ社の価値は計り知れない、と琴音は内心思っている。
「でも、やっぱりお高いねー……硬度って測る必要あるの?」
一概には答えられない話だ。魚であれ水草であれ、種類ごとに好みというものは存在する。
琴音が考えをまとめる前に、千尋が口を挟んだ。
「シュリンプとか飼ってる人はちゃんと見るのかもしんないけど、あたしは気にしたことねーなあ。日本の水道水なんてだいたい軟水だし、塩素だけ抜いたらもう水槽に入れてるよ。コトもだろ?」
「まあ……そう、だな。炭酸塩硬度と総硬度は、正直見てない」
もちろん、琴音にしても千尋にしても、手を抜いているわけでは決してない。
二人が飼っているのはどちらも軟水を好む魚だ。飼育水のベースが水道水である以上、ちょっとくらい砂利や石で飾ったところで硬水にまでは傾かない。
試験紙が明らかに普段と違う色に染まれば流石にびっくりするだろうが、そうでない限り総硬度を気にする必要はあまりない。
――ましてや、炭酸塩硬度ともなれば。
琴音は忌々しげに目を細める。
アクアリウムの世界における「炭酸塩硬度」とは、純粋に化学的な意味での「炭酸塩硬度」ではないのだ。厄介なことに。
「ここで言うところの炭酸塩硬度って、実質『アルカリ度』くらいの意味合いしかないしな……なんで炭酸塩硬度なんて表現使うのか私も知りたいくらいだ……」
「えっと……巳堂さん、その『アルカリ度』っていうのは?」
「pHがどれくらい変わりにくいか」
「それってpHを直接測るんじゃだめなの?」
「たとえば水草メインの水槽だとCO2を添加したりするんだけど、それだけでもpHに影響出るんだよ。だからアルカリ度も適度に高いのが理想ではあるけど……私たちの場合は重視しなくていい、と思う」
そこまで説明してから、琴音は話題を戻すことにした。
たとえ六項目のうち二項目がさほど重要ではなくても、残り四つに対応する試験紙を別々に買うより、この「シックス・イン・ワン」で済ませるほうがまだ安いのだ。
「いっぺんに全部測れるのが便利なことには変わりないんだ。手間が省けるって意外と大事なことだぞ」
「う、うん……いろいろ理不尽なことが多いのはわかったよ」
試験紙を一箱カゴに投じながら、小清水は一連の会話をそのように総括した。
本当にそう考えたならまだまだ甘い。
ここまで見てきたものは全て有名メーカーのレギュラー商品であり、効能が保証されているという点一つをとっても充分まともな部類に入るのだ。
アクアリウムの理不尽という話であれば、小清水はまだ序の口を覗いたに過ぎない。
――まあ、言わないほうがいいだろうけど……。
とりあえず今は黙っておこう。
そんなことを教えても、せっかく入門しかけている小清水をいたずらにビビらせるだけだろうから。
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