第46話 これからも、どうかよろしくね!

 テトラオドン・ミウルスの体に白い斑点が現れたのは、二日後の夕方、小清水が帰宅したときのことだった。


「唐辛子療法、やっぱり効果なしかぁ」


 小清水は水槽のガラス蓋を外し、水面に浮かべてあった唐辛子入りの洗濯ネットをつまみ上げながらため息をつく。


 ――まあ、覚悟はしてたけどね。


 もとより半信半疑ではあったし、教えてくれた琴音自身が気休めと言っていた話でもある。カプサイシンの殺菌効果がそんなに強力だというならバクテリアだって大きな影響を被るはずで、濾過システムが機能不全に陥ってもおかしくないのだ。唐辛子の投入が「気軽にできる簡単な裏技」扱いされていること自体、迷信の類でしかない証明と言える。


 しかし、構わない。状況は進展した。


 間違いなくこの水槽の中に白点虫がいると判明したのだ。


 治療に移ることをためらう理由は、何もなくなった。


「よーし、やるぞ……!」


 小清水は「AQUA RHYTHM」のロゴが印刷されたビニール袋を漁り、魚病薬の箱を引っ張り出した。箱の封を切って中身を開ければ、そこからはメチレンブルーの色素剤が現れる。


 ――白点病に効く薬には、おおまかにメチレンブルー系とマカライトグリーン系の二種類がある。


 琴音が電話口で説明してくれた、薬の選び方が耳の奥に蘇る。


 ――メチレンブルーは、効き目はそこそこだけど魚にとっての毒性は低い。


 ――お迎え直後の魚にはメチレンブルーのほうが安全だ。特に淡水フグは鱗がないからね、他の魚よりも薬に弱いから量も気持ち少なめのほうがいい。


 小清水は薬を水槽に投下する。青く染まっていく水を見ながら、小清水は、琴音の教えがいかに的確だったのかを改めて理解する。


 メチレンブルーの薬は生体に対する毒性が低いぶん、マカライトグリーンと比べると駆虫力に劣る。それが分かっていたからこそ、あらかじめ水温を上げて白点虫の活動を鈍らせるように指示してくれたのだ。重度の白点病は魚の体表の至るところに無数の斑点が出るそうだが、目の前のフグの白点は、小清水が見て数えられる程度しかない。


 ――マカライトグリーンのほうが水草には優しいんですけど……小清水さんの水槽にはほとんど水草がありませんから問題はないと思います。


 ――まぁ、マツモ枯れちゃったら言ってよ、また分けたげるからさ。やっぱりあたしの水槽には白点いなかったっぽいし。


 莉緒と千尋も、それぞれの言葉で励ましてくれた。


 アクアリウムの熟練者が三人もサポートしてくれている。一人でないことがこんなに心強いことはなかった。彼女たちの気持ちに応えるためにも――そして自分のためにも、絶対にテトラオドン・ミウルスを白点病から救ってみせる。



     ◇ ◇ ◇



「治療中は餌を抑えるのが定石だ。まったく食べさせないわけにもいかないから、クリルを一日一回でいこう」


 琴音は給餌に関して追加の指示をくれた。寄生虫に吸い取られた養分を補うために給餌は欠かせず、しかし体力の落ちているときに普段どおりの量を与えるわけにもいかない。まだ人工餌を受け付けないテトラオドン・ミウルスを相手に絶妙なバランスをとらねばならない小清水にとって、師匠からのアドバイスは金言以外の何物でもなかった。




「塩浴も効果的だよ小清水ちゃん。魚の体力の消耗を抑えられる。濃度〇・五パーセントがいいって話だぜ」


 千尋はさらなる策を授けてくれた。水槽内の塩分濃度を魚の体液と同じにすると、浸透圧の関係で魚の体の内外での水分の移動がなくなり、体力を温存させることが可能になるのだという。これまでの彼女と一線を画する理論的な説明に小清水はあんぐりと口を開けたが、自分のために勉強しなおしてくれたのだと思うと嬉しかった。




「一度入れたメチレンブルーの効き目が持続するのは三日から四日です。青が薄れてきたと思ったら再度投薬してください」


 莉緒は薬を入れるタイミングについて解説してくれた。薬のパッケージにも同様のことは書いてあったが、やはり実際に何度も白点病と戦ってきたアクアリストが口にすると説得力は違うものである。小清水は迷うことも怖気づくこともなく、自信をもって薬を使っていくことができた。




「薬でバクテリアが弱ってて、しかも白点虫が泳ぎ回ってるんだから……水換えは回数増やしたほうがいいよね!」


 そして小清水は、持てる知識を総動員して作業に臨んだ。


 テトラオドン・ミウルスの体に浮いた白点は日を追うごとに一つ、また一つと消えていき、三週間が経過する頃にはすっかり見当たらなくなっていた。



     ◇ ◇ ◇



「――うん」と琴音。


「――おーし」と千尋。


「――これは」と莉緒。


 六月の下旬に入って最初の日曜日、小清水のアパートに集った三人のアクアリストは水槽を凝視し、めいめいに頷いて目配せを交わし合った。どきどきしながら身を強張らせていた小清水へと、一斉に向き直って口を揃える。


「成功だ」


「治ったな!」


「完治ですね」


「つかれたぁぁ~~~~……」


 どっと力が抜けて、小清水は椅子のクッションに尻を預ける。


 まだまだやることがあるのは理解しているつもりだ。治療期間中に壊滅してしまったバクテリアを回復させるためにはもう少し時間が必要で、濾過が働くようになるまでは水換えの頻度を落とせない。薬の成分が染み込んでいるであろうフィルター内の濾材も、新しいのを買って交換してしまったほうがいいだろう。


 それでも、峠は越えたのだ。


 ひと息ついても罰は当たるまい。


「飼い始めていきなりこうなっちゃうんだもん、びっくりしたよ……」


「まあ、お迎えのタイミングが一番危ないと言われますから。ある意味これも経験ですよ」


「そーそー。勉強できて成長に繋がったと思おうぜ、でなきゃやってらんねー」


 莉緒も千尋もどこか普通ではない。喉元過ぎればなんとやらという話なのだろうが、だとすればそれは彼女たちがここ三週間、小清水の水槽について自身のことのように気を揉んでいたという証左だ。


 そのとき、呟きが聞こえた。


「――今度は、ちゃんと助けられた」


「……巳堂さん?」


 琴音がふらりと水槽から離れて、小清水に歩み寄ってくる。


「ギンガを飼う前……小学生の頃にさ、別のスネークヘッドを飼っていたことがあったんだ。あのときの私は白点病に気づくのが遅れて、死なせちゃって……もう水槽は辞めようってくらい落ち込んだんだけど」


 琴音はそのまま、椅子に腰かける小清水の前にしゃがみ込んだ。


「でも、辞めなくてよかったよ」


 こちらをまっすぐに見据えるその表情は、笑顔。


 いつもの不敵に口角を上げる仕草ではない、堪えきれないというような、自然にこぼれる笑顔だった。


「あ――」


 とくん、と自分の鼓動を小清水は感じる。


 琴音はきっと、失敗をバネにして真剣にアクアリウムを学んだのだろう。その経験がギンガの飼育にも活きていて――今、自分と自分のテトラオドン・ミウルスを救ってくれたのだ。


 琴音が膝元で組み合わせた手を、こちらの両手でやわらかく包む。


「わっ」


「ありがとう、巳堂さん」


 彼女がアクアリウムを諦めていたら、熱帯魚店で出会うこともなかった。


「みんなも――」


 千尋と知り合うこともなければ、莉緒と熱帯魚の話で通じ合うこともなかっただろう。


「それから、キミも」


 いろんな魚がいることを知って、テトラオドン・ミウルスというお気に入りを選べることもなかっただろう。


「わたし、これからもアクアリウムの勉強をして、しっかり魚を育てきる。そして巳堂さんや天河さんや翠園寺さんがしてくれたみたいに、今度はみんなが困ったときにわたしが助けてあげられるくらいになるから――」


 自分の師匠は、自分にたくさんの巡り合わせをくれたすごい女の子だった。


 だから、肩を並べて支え合える、対等な友達になりたいと思う。


「――これからも、どうかよろしくね!」




<Ⅰ.水槽立ち上げの章 Fin>

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