第45話 アクアリストの天敵みたいな生き物

「と、唐辛子?」


 小清水は目を点にした。


 頭の中がクエスチョンマークで埋まる。質問の意図がわからない。いつもの琴音なら白点病への対処法について指示をくれるところなのに、まさかこの状況でアクアリウムとまったく関係のない話が飛び出すとは予想だにしなかった。


〔ことね:一本まるまるのやつ。輪切りにしたのでもいいけど ――2分前〕


〔由那:あることはあるよ。ペペロンチーノとかよく作るから。でも、なんで唐辛子? ――現在〕


 すると、電話がかかってきた。


 琴音が説明するところによると、事情は次の通りだった。


『唐辛子にはカプサイシンって成分が含まれてるんだ。カプサイシンには殺菌効果があるから、白点病に効く――


「う、う~ん……」


 つまり琴音は、唐辛子を水槽に入れろと言いたいわけだ。


 意味はわかる。


 しかし、わかったらわかったで本質的な疑問が湧いてくる。


「でも、それってちゃんと効くの?」


 うさんくさい民間療法っぽい、というのが正直なところだ。昔おばあちゃんから聞いた「ハチに刺されたときは患部におしっこをかければ治る」という話が思い出される。何年か後にデマだと知ってものすごく衝撃を受けたし、何よりも試す機会が訪れなくてよかったと心の底から安堵したのだ。


「巳堂さんを疑いたいわけじゃないけど、『カプサイシン』だなんてそれっぽい用語で武装してるところが逆に怪しいというか……」


『しっかりしてるな小清水さん……いや、言いたいことはわかるよ』


 意外にも、琴音はあっさりと己の提案が根拠に欠けることを認めた。


『気休めみたいなものだよ。本当に白点病なのかも分からないうちから薬浴とか塩浴やるのは避けたほうがいいだろうし。けど、何かしてないと不安でしょ?』


「まあ……」


『とりあえず唐辛子を入れて様子見て、もし白い斑点が出てきたら本格的な治療に入ろう』


「そう……だね。どっちみち今はそれくらいしかできることないし」


 たとえ白い斑点が見えていたとしても、手元に薬はないのである。明日の放課後までは唐辛子で凌ぐしかない。


 と思いきや、琴音はもう一つアイデアを授けてくれた。


『ところで、水温は何度に設定してる?』


「水温? 二十五度だけど……」


『二十八度まで上げよう』


 実はこっちのほうが本命なんだ、と琴音は口にする。


『私たちが風邪をひくと、体温が上がるだろ?』


「代謝が上がるのと、菌が熱で弱るんだよね」


『そ。魚は変温動物だから、魚にとっての体温は水温なんだ。高水温なら魚の代謝が上がるし、逆に白点虫の活性は鈍る。白点虫が繁殖しやすい温度は二十五度以下だからね』


「二十五度!? ちょうどだよ!」


 小清水はぎょっとして水槽の脇に回ると、サーモのつまみをぐいと回した。ヒーター稼働中を示すオレンジ色のランプが灯る。


「はぁ~……ありがとうね、巳堂さん。もしかして、普段から二十八度くらいのままにしておいたほうが予防になっていいのかな?」


『そこは魚の適正水温と相談だけどな。ま、テトラオドン・ミウルスは高めだって聞くから、二十八度でいいかもしれない』


 それから薬選びについてのアドバイスがいくつかあって、「全力でサポートするから」という宣言を最後に電話が切れた。


 ほうっ、と小清水は息をつく。


 ――やっぱり、巳堂さんは頼れる師匠だ。


 ――でも……。


 水槽の中のテトラオドン・ミウルスを視線で追う。赤褐色の魚は相変わらず、体を捩ったり石に擦りつけたりといった行動を繰り返している。


「飼い主のわたしが一番がんばらなきゃね」


 とにかく、ひとまずは唐辛子だ。


 小清水はクローゼットの奥から予備の洗濯ネットを引っ張り出すと、中に入れる唐辛子を調達すべくキッチンに向かった。



     ◇ ◇ ◇



「白点虫――正式にはウオノカイセンチュウというのですが、彼らは仔虫のときに魚に寄生して、宿主から栄養分を吸収して育ちます。白い斑点となって見えるのはこの段階ですね」


 翌朝B組の教室に入ると、こちらよりも早く登校していた莉緒が歩み寄ってきて、白点虫についての講釈を施してくれた。


「育ったウオノカイセンチュウは魚の体から離れ、シストという状態を形成します」


「シスト?」


「ええ、成虫のようなものと思っていただければ。――シストは細胞分裂をして仔虫を放出します。こうして放たれた仔虫がまた魚に寄生して、あとは繰り返し……というわけです」


「なるほど……よくできてるって言うか何て言うか……」


「魚に寄生できなかった仔虫は一日以内に死滅するんですが、水槽は閉鎖空間ですから、泳ぎ回っていれば寄生できる可能性は高いわけで」


「……アクアリストの天敵みたいな生き物だってことはよくわかったよ」


 小清水は若干げんなりしながら、説明してもらった情報をメモアプリに打ち込んだ。


 莉緒がさらに言葉を続ける。


「白点病の薬というのは、魚から離れた状態のウオノカイセンチュウを駆除するものなんです」


「泳いでるときの仔虫と、シスト?」


「そういうことですね。つまり白い斑点が見えているときではなく、むしろその後が勝負なんです」


 うーん、と小清水は唇を尖らせる。


 理屈はわかる。


 だが、白点虫が水槽内にいるとわかるのは、魚に白点ができるからだ。白点が消えてしまったら、何を根拠に投薬の判断を下せばいいのだろうか。


 そのことを相談すると、莉緒は「ご安心ください」と笑みを浮かべた。


「ウオノカイセンチュウの繁殖サイクルは五日前後なんです」


「えっと、それじゃあ……五日よりも長く薬を使い続ければ全滅させられる、ってこと?」


「短くて二週間、大事を取るなら三週間ほどでしょうかね。そのあと魚に白点が現れなければ、駆除完了と考えてよろしいかと」


 三週間、とメモしておく。仮に小清水の水槽に白点虫が潜んでいるのだとしたら、テトラオドン・ミウルスが完治するのは六月の下旬という計算になる。


 それにしても――と、小清水は尊敬の眼差しを莉緒に向けた。


「詳しいね、翠園寺さん」


「わたくしもいろいろと痛い目に遭いましたから。薬を使わなきゃいけなくなると、水草にもダメージが来るんですよ」


 莉緒はそう言って、恥ずかしそうに眉尻を下げる。

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