第115話 詩乃がカニなら、ウチはエビでも
ここで一旦、視点を理沙&詩乃へと移してみよう。
「ボトルアクアか~。前に母ちゃんが雑貨屋で買ってきた保存用のガラス瓶、ずっと使わないまま食器棚の肥やしになってんだけどさ。ああいうのでいいんかね?」
「私に訊かれても……まあでも、いいんじゃないの透明な瓶なら何でも。保存容器ならそれなりにサイズもあるんでしょうし」
「んじゃわざわざ買わなくていいか。とりあえず今日のところは巳堂サンの言ってたとおり、いろいろ見て回って何飼うか決めるのがいいかね」
すでに琴音とは別れている。もとより顔を合わせたのも偶然だったのだし、アクアリストとして自分たちより遥かに熟練している彼女には、このアクアマーケットにおける彼女なりの予定があるはずだ。あまり時間を取らせるのは悪い。
「――で? あんた、どんなの飼いたいとかのイメージはあるの?」
と、詩乃。
ボトルアクアリウムに生体を入れるならアカヒレやベタがオススメだ、と琴音は語っていた。前者は丈夫さとミニマムさを、後者は狭い環境を苦にしない性格を有しているから――解説を要約すると概ねそのようなところに落ち着く。
アカヒレもベタも、ショップで見かけたことはある。
というかベタに関しては現在進行形で目の当たりにし続けていて、かの魚を出品しているブースは個人か業者かを問わず一つや二つではきかない。
――でもなぁ……。
横目で理沙を盗み見ながら、詩乃は思わず眉をひそめてしまう。
「こいつ、ベタってガラじゃないのよねぇ」
「あん? 何か言った?」
「いちいち繰り返すようなことじゃないわ。あんたに似合う魚が見つかればいいわねって話よ」
色とりどりで綺麗な一方でバリエーションが多すぎてよくわからない、というのがベタに対する詩乃の認識である。
なにしろ今日見かけたぶんだけでも目移りしてしまうくらいなのだ。あの中からこれという一匹を定めるのは結構な難題だと思う。いっそコレクションするつもりで多数のベタを迎えられたらいいのだろうが、飼育に割けるスペースと資金、そして何よりも経験の皆無さという三重苦を抱える理沙がその方法を選ぶわけにもいくまい。
そのあたりの問題はどうやら理沙も自覚しているようで、ベタの並んだブースの前を通りかかっても歩みを緩めようとはせず、
「つか正直、べつに魚じゃなくてもいいんだよな。詩乃の……ええと、アクアテラリウムだっけ? あれのおかげでウチもやりてーなーって思ったんだし」
「……ふうん」
そう言われると悪い気はしない詩乃である。
中学生のときから理沙のことを間近で見てきた。バスケットボールにしか興味のない奴だと思っていたのに、まさか自分の始めたばかりのカニリウムがそこまで影響を与えるとは予想だにしなかった。
いっしょの時間を過ごしてきたつもりでも、まだまだ知らないことはあるものだ。
「詩乃がカニなら、ウチはエビでも飼ってみようかねえ」
「へ、へえ~……まあ、いいんじゃない?」
詩乃の心臓がどきりと高鳴る。
理沙のことだ。こちらがお迎えする生体としてカニを選んだことの意味に気づいたわけではないだろう。
それとわかっていながら反応してしまうのは、意識してしまった側の弱みというやつなのだろうか。
「エビの展示やってるブースってあるんかな?」
「淡水のエビって、要するにアクアリウムカフェで見たようなやつじゃないの? 生物部が飼ってるくらいなんだし売ってるブリーダーさんはいるでしょうけど……わざわざ冷やかしに行くほどかしら」
瑞泉祭で自分たちの座ったテーブルにはプラケースが置かれていて、中には小さな魚――たしか「オトシンクルス」とかいう名前だった――が入っていた。同じようなプラケースは全てのテーブルに用意されていたわけだが、ひとつ前の列に「ヤマトヌマエビ」がいたと詩乃は記憶している。
透き通った体をもつ可愛らしいエビだった。
可愛らしいエビではあったが、つまるところ自分たちにとっては既知の生体なのであって、今日買って帰れるわけでもないのに見に行く必要はない気がする。
同感だったのだろう、理沙は「たしかになぁ」と頷いて、
「あれなら生物部の誰かに頼めばいくらでも学校で見られるだろうしなぁ。じゃあこれもやっぱり別にいいか」
「先に機材とか砂とかチェックしたほうがいいんじゃないかしら? 今日はメーカーも出店してるみたいだし、ここでも揃えられるものはありそうよ」
「んだな。とりあえずさっき巳堂サンが言ってた……えーっと何だっけ、丸型底面フィルター? ってやつ探してみりゃいいんかねえ」
方針が決まった。そう思った。
「――んっふっふ……」
突然、ねっとりとした笑い声が耳に届いた。
「誰だっ!?」
スポーツで鍛えた反射神経の賜物か、理沙がいち早く反応し、ばっと勢いよく振り返りながら跳び退る。
一拍遅れた詩乃のすぐ背後に、何者かの気配がぬらりと出現した。
「話は聞かせてもらいましたよぉ、お二人とも」
「ひいっ……!」
――ふ、不審者……!?
大規模即売会の最中に起こったいきなりの事態。この種のイベントにトラブルが付き物とはしばしば耳にする話だが、まさか自分が当事者になろうとは想像だにしなかった。
詩乃の脳ミソが恐怖に染まり、真っ白な思考がそのまま口をついて出る。
「た……助けて理沙ぁっ!」
ところがその理沙はといえば、すっかり平静さを取り戻した様子で、
「あー……詩乃? その人は大丈夫だぞ」
「……え?」
苦笑いを浮かべた理沙の顔がクールダウンの呼び水になった。
既視感。
前にもこんなことがあったような気がする――詩乃は緩慢に、錆びた機械のような動きで首を巡らせる。
気配の主を視界に捉えた。
見知った人物であった。
なにしろ自分は、この人の店でバンパイアクラブを入手したのだから。
「かっ……革津さん!?」
「どうもぉ、毎度『ディープジャングル』をご贔屓にしてくださってありがとうございますぅ……」
地下街の片隅に入居するアクアショップ、ネイチャーアクア専門店「ディープジャングル」の女性店員が、相も変わらず幽霊じみた佇まいを見せていた。
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