第56話 お気遣いあんがと
「――いやぁ、おいしかった。翠園寺さんこんなのも作れるんだねー、すっげぇな」
「そう言っていただけるとありがたいです」
空になった皿をリビングのテーブルから片付けながら、莉緒が心底嬉しそうに顔を綻ばせた。普段淑やかな彼女の無邪気な笑みを目の当たりにして、こういう表情も絵になるじゃん、と千尋は声には出さずひとりごちる。
昼食は、莉緒のお手製のパンキッシュだった。「用意した」という言葉は「取り寄せた」くらいの意味だろうとてっきり想像していたので、このお嬢様が自ら作っていたのだとわかったときには耳を疑った千尋である。驚いたのは自分だけではなかったと思いたい。
「よく料理すんの?」
「よく、というほどでもないんですけどね」
莉緒は相好を崩したまま、
「うちで贔屓にしている家事代行のスタッフがいまして。両親が家を空けているときは、大抵その方に来てもらっているんですよ」
「じゃあ、いつもは家政婦さんがごはん作ってくれるんだ?」
「ええ。ただ、今日は業者自体がお休みだとわかっていたので、わたくしがあらかじめ作り方を習っておきました。……個人的に来ようかとは提案してくれていたんですけどね」
そこで莉緒はちらりと琴音を一瞥する。
琴音は小清水と会話していて、莉緒の視線には気づいていない。しかし、千尋は意図を察した。
「……あー、お気遣いあんがと」
「いえ。わたしも自分でおもてなしするのが楽しみで」
「その家政婦さんにも日を改めて会ってみたいね。今の話の感じからすると、仲いいんでしょ?」
「わたくしが小学生の頃からの付き合いですから、半分くらい姉のようなものでしょうか。機を見て紹介できたら、わたくしとしても嬉しいです」
――姉、か。
そういう言い方をするということは、自分たちと極端に年齢が離れているわけではないのだろう。おそらく瑞穂ちゃん先生よりもちょい下くらい――千尋はそのようにアタリをつける。
微妙なラインだな、と琴音を横目で見ながら思う。
琴音の人見知りは歳が近いほど発揮される傾向にある、というのが千尋の長年の観察結果だ。相手を「赤の他人」と認識しているときは普通に振る舞えるが、ひとたびその内側に入り込まれると距離感がわからなくなる、ということかもしれない。自分のようにお互い慣れきってしまえば気兼ねのないやりとりもできるのだが、「友達の知り合いのお姉さん」となると果たしてどうか。
――まぁ、そんとき考えりゃいいか。
どのみち機会を得るのはもう少し先の話になるだろう、と千尋は考えを打ち切った。
今はとにかく自分のことだ。
「――おーい、コトぉ」
「どうした?」
琴音が振り返る。
「そろそろ勉強会、再開しよーぜ。英語教えてくれ」
「なんだ、ずいぶんやる気だな? 外国語のブリード記録読めたら面白い、って言ったのは私だけど、正直ここまで効果覿面とは思わなかったんだが」
「面白いことはすべてに優先すっからな」
千尋は嘯いて、一拍の間ののちに肩をすくめる。
「……あと、さっさと修羅場抜けたいってのもある」
「テストの日程は決まってるんだが……」
ぼやきつつも、琴音は率先して二階に戻ろうとしてくれる。この幼馴染とつるんでいて面白いのはこういう部分だよな、と千尋はひそかに笑いを堪えた。
◇ ◇ ◇
時間は飛ぶように過ぎた。
二日にわたっての勉強会は、千尋の頭に一定の知識と大いなる自信を与えた。テスト週間を迎えた亜久亜高校のピリピリとした空気にも呑まれずに済んだことに鑑みれば、どちらかと言うと自信のほうが大きな成果だったかもしれない。
考査の翌週、すべての科目の解答用紙が戻ってきた水曜日の放課後。一年A組の教室で、千尋の机を取り囲むかのように一同が顔を突き合わせる。
「……どうだったの?」
ごくり、と生唾を飲み込みながら小清水。
「口で話すより、見てもらったほうがわかりやすいっしょ」
千尋は、採点済みのテストを机上に広げた。
――現代文、六〇点。
――古典、三九点。
――数学Ⅰ、三八点。
――数学A、三五点。
――英語、四〇点。
――世界史、三七点。
――地理、四一点。
――化学、三四点。
――生物、五二点。
――合計、三七六点。
張り詰めた空気を破って、琴音が口をひらいた。
「……これ大丈夫なのか? 特に数Aと化学……」
「……問題は全体的に難しくなっていましたし、学年平均が七〇点を超えた科目はなかったはずですけど……」
莉緒がぱらぱらと学生手帳を捲る。手帳の後半はメモ取り用のスペースになっていて、どうやら莉緒はそこに各教科の平均点を書き入れていたらしい。
「――ありました」
莉緒に目線が集中する、
「数学Aは六五点、化学は六二点が平均です」
「と、いうことは――」
「おめでとうございます、天河さん。この点数ならどの科目も追試はありません!」
次の瞬間、琴音が長い長い息をついた。小清水は歓声をあげ、莉緒はにっこりと微笑む。
千尋は、叫びたい気持ちをとっさに抑えた。それでも制御しきれなかった感情が体を動かす力に化けて、千尋は天井めがけて拳を高々と突き上げる。
「これで、生物部リスタートの障害はなくなったわけだ!」
明くる木曜日、その言葉は真実となった。
職員室に呼び出された千尋は、佐瀬先生の口から直接、生物部の活動再開が正式に認可されたことを告げられた。
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