ⅵ.おさかなたちの食糧事情

第57話 ここは頼ってもいいところだよね

 小清水こしみず由那ゆなにとって、もとより学校はお気に入りの空間のひとつだった。入学を機に親元を離れてしまったせいで、他人と触れ合える機会は教室にいる間くらいにしかなかったからだ。


 しかし、今は少しばかり意味合いが変わった。


 友達ができたし、部活も始めた。


 今の小清水にとって、亜久亜あくあ高校は一人暮らしから逃避するための場所ではない。もっとポジティブな意味で、足を運ぶのが楽しいと思える場所になっていた。


 もっとも――


 この変化で最も重要なのは、むしろ学校にいるとき以外の時間であった。小清水はもう、アパートの部屋にいても寂しくはない。


 それは新しい友人たちとLANEで会話できるからという理由でもあれば、魚を飼い始めたことによってそもそも孤独ではなくなったという理由でもある。


 そのようにいろんなことが積み重なった結果として、小清水は心から週末を満喫できるようになったのだった。


「おお~、食べてくれた。えらいえらい」


 金曜日の夜である。


 アパートの自室、かわいらしく調度を整えたリビングの一角で、小清水は水槽の魚に喝采を贈った。


 テトラオドン・ミウルス。


 小清水自ら「うめぼし」という名前をつけた赤褐色の小さなフグが、ゆらゆらと水中を漂う赤いヒモを次から次へと捕食してゆく。


 否――捕食、というのは些か正確さを欠くかもしれない。


 なにしろ、その赤いヒモたちが生きていたのは商品としてパッケージに詰められるより前の話なのだから。


巳堂みどうさんが教えてくれたとおりだ。冷凍アカムシ、使えるな~」


 以前餌のレパートリーについて相談したとき、冷凍餌という選択肢を示してもらった。あの後すぐにテスト期間に突入してしまったこともあってなかなか実行に移せずにいたが、試験が過去のものとなった今日、ようやくショップまで買いに行くことができたのだった。


 アカムシは、ユスリカという昆虫の幼体なのだという。


 その通称のとおり真っ赤な色をしていて、体は細い。しらたきを細切れにして食紅に漬けたら近い見た目になりそうだな、と小清水は密かに――べつに隠すわけではないが、言うタイミングが訪れるタイプの話でもない――思っている。


 冷凍アカムシの嗜好性は抜群で、だいたいの魚は食いついてくれると聞いていた。


 好き嫌いの激しいうめぼしが「だいたい」に含まれるか不安だったが、これならひとまず安心してもよさそうだ。


「……そういえば巳堂さんたち、部で生き餌をストックしようって言ってくれてたよね」


 いつかの放課後に交わした会話が思い出された。


 生物部の本懐はあくまでもレイアウト水槽でコンテスト入賞を狙うことだが、並行して生き餌の繁殖にチャレンジしようという案も真剣に検討されていたのだ。


 ――わたしに気を遣ってくれたんだよね、きっと。


 現状、小清水の部屋には水槽が一つしかない。大してスペースが余っているわけでもないから、増やすことも難しい。


 つまりはメダカやエビを部屋でストックすることができないわけで、うめぼしに新鮮な餌を食べてもらおうと思ったら、毎日アクアショップまで足を運ばねばならないことになってしまう。


 部室でストックを肩代わりしてくれるなら、それほど助かることはない。


「お世話になりっぱなしだけど……うめぼしのためだもん、ここは頼ってもいいところだよね」


 小清水はスマートフォンを取り出すと、LANEのアプリを立ち上げた。


 開くグループは当然、「亜久亜高校生物部」だ。



     ◇ ◇ ◇



 バシャッ、と水の跳ねる音が響いた。


 水面近くで止めた手をめがけて、水槽の中から細長い影が飛び出してくる。宝石のような青い鱗を煌めかせながら、その魚は器用にこちらの指の間を狙い澄まして、摘まんでいたドライフードの粒を咥え去っていった。


「よしっ。いい子だ、ギンガ」


 愛魚――ギンガと名付けたブルームーンギャラクシースネークヘッドの賢さに感嘆して、巳堂琴音ことねはかすかに唇の端を持ち上げる。


「おまえ、もうずいぶん慣れてくれたな」


 いくら優れた視力をもつスネークヘッドといえども、餌の手渡しは一朝一夕で成功するものではない。人間が水槽の前に立っても怯えない魚側の信頼と、こいつならこちらの指を噛まずに餌だけ持ち去ってくれるはずだという人間側の信頼がぴったり合致しなくては、まず失敗を避けられないであろう曲芸だ。


 このギンガとて、迎えた当初は岩陰に隠れて姿を見せてくれなかったのだ。その頃と比べれば格段の進歩と言えよう。


「ひとつじゃ足りないよな。もう一回……」


 餌の袋に手を伸ばそうとしたとき、スマートフォンが通知音を奏でた。


「LANE? ――小清水さんからか」


 文面を読んでみる。


 内容を要約すると、生き餌ストック水槽の立ち上げにさっそく取りかからないかという話だった。勝手なこと言ってごめんなさいだけど、なんて書き添えているのが小清水らしい。


「気にすることないのにな」


 部で生き餌の繁殖に取り組むことを提案したのは、たしかに彼女のためという面が大きかったかもしれない。そこは否定できないし、否定する必要もないだろう。


 しかし同時に、こちらが恩恵を受けられる話でもあるのだ。たとえば自分が飼っているこのギンガだって、人工餌を口にしてくれるとはいっても、本来は獰猛なフィッシュイーターなのだから。


 ――とはいえ。


「部の話となると、私が賛成しただけじゃどうにもならないんだよな」


 レイアウト水槽の段取りしだいだよな、と思う。


 部員の中で水草の扱いに最も長けているのは、今更言うまでもなくネイチャーアクアリウム志向の莉緒りおだ。彼女がどのような水槽を作りたいと考えるのか、そのイメージしだいでレイアウト水槽にかけるべき時間も変わってくる。


「……どれ、私からも探りを入れてみるか」


 琴音はスマートフォンの画面をフリックして、グループチャットに新たなメッセージを打ち込んだ。

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