第58話 何を繁殖させるんですの?

 翠園寺すいおんじ莉緒は水槽の前で目を眇めた。


 纏っているのはノースリーブのブラウス。水に濡れるといけないので、水槽のメンテナンスをする日は袖のない服を着ようと決めている。


 鋏を持った右手を水槽に入れて、真っ赤に色づいたロタラ・インジカを半ばほどからカットした。浮いてきた切れ端を回収し、どうしたものか思案を巡らせる。このまま植え戻せば切断面から根付いて再び生長を始めるが、前景に配置するべき草ではないし、中景と後景のスペースはもう埋まっている。


「どなたかに差し上げられたらいいのですが……」


 このまま処分することもできないわけではない。というか、今まではいつもそうしてきたのだ。水槽を増やすつもりがない以上、捨ててしまうよりほかになかった。


 しかし、無駄にならないならそのほうがいい。


 フリマサイトを利用して売ってしまうという方法も考えないではなかった。が、一度のトリミングで出る程度の量では送料のほうが高くつく。裕福な家に生まれた身だと自覚している莉緒ではあるが、お小遣いの額には限りがある手前、足を出してまでチャレンジするのは避けたい。


「――それなら、ご友人にお譲りしては?」


「ひゃっ」


 いきなり背後から声がかかって、莉緒は反射的に飛び上がった。


 抑揚に乏しい、少し掠れ気味の声。


 よく知っている相手だ。莉緒はくるりと振り返り、訪問者の顔を見上げて頬を膨らませた。


「ビックリさせないでください、真凜まりんさん」


「失礼しました。そんなに驚かれるとは思わなかったもので」


 訪問者――黒いシャツに白いエプロン姿の女性が恭しく頭を下げると、ウェーブのかかったミディアムヘアが揺れる。


 みなと真凜。


 家事代行サービスの業者に勤める、いわゆる家政婦だ。翠園寺家には五年ほど前から出入りしていて、莉緒は父と母が不在のとき、彼女に世話をしてもらうことが多かった。


「ご両親がお戻りになったので、私はそろそろお暇しようかと挨拶に伺ったんですが……ノックをしても返事がなかったので、念のため様子を見ておこうかと」


 真凜はそこで悪戯っぽく目を細め、


「もっとも、正直心配はしていませんでしたけどね。莉緒ちゃんが一旦水槽を弄りはじめると脇目も振らなくなるのは、今に始まったことではないですから」


「……もう」


「それで、ご友人は水草を嗜まれないので?」


 改めて尋ねられ、莉緒は生物部の面々を思い浮かべる。


 そもそも水草に興味がないならば、部でコンテストに出場すること自体に乗ってこなかっただろう。その意味では三人にあげるという手もないではない。


 問題は、彼女たちが本質的に生体メインのアクアリストだということだ。


 特にガーネットを薄く敷いているだけの千尋ちひろと、砂を掘り返す淡水フグを飼育している小清水――あの二人の水槽には、とてもではないが水草を植える余地はないだろう。


 と、なれば……。


 ――巳堂さんに訊いてみましょうか。


 琴音の水槽をこの目で直接確かめたことはない。ないが、彼女の飼っているスネークヘッドの写真を見せてもらったとき、背景に緑があったのを莉緒はしっかりと記憶している。ピントが魚のほうに合っていたので断言はできないが、あれはバリスネリアと、たぶんウィステリアのはずだ。


 琴音なら、ロタラにも関心を示すかもしれない。


 莉緒は心を決めると、真凜の顔へと視線を戻した。


「ありがとうございます、真凜さん。要らないかどうか訊いてみることにしますね」


「それがいいでしょう。――ところで」


 真凜の視線がついと莉緒から逸れる。何だろうと追いかけた莉緒の目が、テーブルの上のスマートフォンに留まる。


 言うまでもない。莉緒自身のスマートフォンである。


 通知を示すランプがちかちかと点滅している。


「先程から何度か連絡が来ていましたよ。どうやらLANEのようですね」


 噂をすれば、というやつだろうか。


 莉緒はスマホのロックを解除し、通知欄からダイレクトでアプリを立ち上げた。案の定「亜久亜高校生物部」のグループチャットに新しいメッセージが来ている。


 琴音からの質問だった。


「コンテスト用水槽の構想はどのくらい固まっているか、ですか……」


 会話の流れを追ってみると、どうやら発端は小清水と思われた。生き餌を安定供給したい関係で、ちょっと前に持ち上がった生体の繁殖の件が再燃したらしい。


 急かされているわけではないのだと知って、ひとまずほっとする。


「まったく頭に浮かんでいない……とは言いませんけど、皆さんにも相談しなければいけないと思っていたんですよね」


 実質的には白紙のようなものだった。なにしろ計画がハッキリしないことにはどんな水草を買い揃えればいいのかも決まらないし、当然ながら制作期間の見積りだってできない。


「わたくしは生き餌ストックを優先する方向で異存ありません――っと」


 画面をフリックしてメッセージを打ち込む。


 送信した後、ふと小首を傾げて、


「……でも、何を繁殖させるんですの?」


 莉緒はもう一つ話を先に進めようと、浮かんだ疑問をそのままグループチャットへと投下した。


 返事は音速で届いた。


〔チヒロ:あたしにいい考えがある! ――現在〕


 千尋であった。


〔チヒロ:ガサガサ行こうぜ! ――現在〕

  • Twitterで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

新規登録で充実の読書を

マイページ
読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
フォローしたユーザーの活動を追える
通知
小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
閲覧履歴
以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
新規ユーザー登録無料

アカウントをお持ちの方はログイン

カクヨムで可能な読書体験をくわしく知る