第59話 野外活動を始めましょうか!

 亜久亜市には芽山めやま沼という水域がある。


 そのまんま「芽山」という地区にある沼で、最寄りである芽山駅は亜久亜駅から数えて六駅。これだけ聞くと簡単に行けそうに思えるが、芽山駅が属する亜栗あぐり線は平日休日を問わず一日十本しか運行しないという過疎路線中の過疎路線で、芽山駅に停まる電車となるとさらに半数の五本まで減る。


 というわけで、亜久亜駅まで出たあとは駅前のバスターミナルから栗鼠追りすおい方面行きのバスに乗り、四〇分ほど揺られたほうがマシである――というのが市民の常識なのだった。


 顧問の佐瀬させ瑞穂みずほが引率しているにもかかわらず公共交通機関に頼らなければならなかったのが何故かといえば、その理由は至ってシンプルなもので、


「瑞穂ちゃん先生、ペーパードライバーだったんスね……」


「免許は身分証明に使えるから取っただけで、車は持ってないのよ……運転したところでこうなるのがわかりきってるから」


 千尋の言葉に答えを返して、佐瀬先生は色のついたビニール袋に青ざめた顔を突っ込んだ。


「ヴォエッ」


 濁った声が青空の下に響きわたる。


 気遣わしげな表情を浮かべて歩み寄った莉緒が、佐瀬先生の背中をさすりはじめる。


 朝っぱらから野外でゲロを吐く二十八歳の女教師と、介抱する高校一年生。これほどひどい図もそうはないよなと琴音は思う。バス停の周辺に人家が見当たらず、人の往来もまったくないのがせめてもの救いだ。


「むしろよく免許取れたなこの人……こうなるのがわかってたなら酔い止めくらい飲んできたらよかったのに……」


「こりゃオトコできんわー……あー小清水ちゃん、そっちのデカい鞄に水のペットボトル入ってるから、先生に一本あげたって」


「う、うん……」


 結局、佐瀬先生が回復するまでには二〇分を要した。



     ◇ ◇ ◇



「――さて、気を取り直して野外活動を始めましょうか!」


 バス停を離れてしばらくの間は車酔いの影響を引きずっていた佐瀬先生も、夏の山の爽やかな空気にあてられたか、目的地に辿り着く頃にはすっかり気力を取り戻していた。


 広葉樹の森に囲まれた沢である。


 芽山沼に流れ込む数多の小川のひとつだ。


 この場所を提案したのはもちろん言い出しっぺの千尋であった。どうやらときたまここを訪れて、餌となる川魚を採集してきているらしい。なるほど、アーマードプレコとメチニスはともかくとしても、ブラントノーズ・ガーはたしかに生き餌を欲することもあるだろう。


「あんたたち、くれぐれもはしゃいで跳ね回ったりはしないようにね。こんな浅い川で流されたり溺れたりはないとしても、転んで頭ケガしたりしたら打ちどころによっちゃマズいから。――まあ、そうならないように私が見てはいるけれど」


 最後の一言で、生徒四人は何とも言えない雰囲気に包まれた。なにしろさっきの今である。佐瀬先生に「私が見ているから」と言われても、あまり安心できないどころか逆にこっちのセリフではないかという気さえする。


「先生、地味にあたしたちの呼び方が『あなたたち』じゃなくなったのは何なんすか?」


「みっともないとこ見られちゃったし、なんかもうあんたたち相手なら取り繕わなくていいかなって」


「……さいですか」


 さしもの千尋も呆れ気味だ。莉緒に向けて送ったアイコンタクトは、この威厳のない教師を普段からサポートしている彼女への同情を示すものだろうか。


 うし、と気合を込めるように千尋は息をついて、


「――そんじゃ早速だけど、予定どおりガサガサスタートといこうぜ。制限時間は昼休憩をはさんで二時間。捕まえた生き物はクーラーボックスに入れること」


 説明しながら、千尋は全員に網を配ってゆく。伸縮できる棒の先端に網が装着されているタイプのもので、ガサガサにおいては必須とも言える装備である。


 タモ網で捕獲した生体を、水を張ったクーラーボックスに入れて学校へと連れてゆく。それが今回の活動の目的だ。


「学校に戻ったら、第二理科準備室に用意した水槽で水合わせ。プラケもいくつか揃えてあるから、すぐに生き餌が入り用な人は多少自分ちに持ち帰ってもよし!」


 先週末に千尋が発した「ガサガサ行こうぜ」の号令を受けて、生物部では今週、初の活動らしい活動として水槽の立ち上げを行っていたのだ。


 第二理科準備室は生物標本の置き場である。部で掃除を請け負う代わりに、隅のスペースをもらい受けて60cm規格水槽を置いたのだった。


「――以上! 何か質問ある人!」


「はいっ」


 小清水が右手を挙げた。アウトドアの開放感からか水遊びへのワクワクからか、彼女も微妙にテンションが高くなっている。


「どうして『ガサガサ』っていうんですかっ!?」


「いい質問だ。それはだなぁ――」


 千尋はニヤリと白い歯を見せると、くるりと川のほうを振り向き、無造作にタモ網を突っ込んだ。


 狙ったのは、岸から垂れ下がった草が藪を形成している箇所。


 川底から川岸へ、ガサガサと網を擦りつけるようにしながら柄を引いていく。完全に水から上げたタモ網を、千尋はゆっくりと足元の砂利の上に寝かせる。


「おっ、幸先がいいじゃーん」


 千尋が網から掴み上げたのは、真っ赤な殻をもつアメリカザリガニの成体だった。


「――とまあこんな感じで、ガサガサやりながら生き物を捕るから『ガサガサ』ってわけ。まんまっしょ?」


「うん、わかりやすい!」


 小清水が目を輝かせてこくこくと頷く。


 そんな光景を微笑ましいと思いながら、琴音は川の水面へと視線を向ける。


 ――今日は素直に、千尋に感謝だな。


 琴音は静かに口角を上げる。自分とて肉食魚を飼っている身だ、タダで生き餌を確保できるチャンスには是が非でも乗りたい。

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