第54話 要は赤点さえ取らなきゃいいんだ!

 岩見谷いわみだにはこれといって高級住宅地というわけではない。が、起伏に富んだ地形をしているのが奏功してのことだろう、ゆるやかに傾斜した並木道は風情があるし、折り重なった坂に沿って立派な一軒家でも建っていれば実際以上に豪邸に見える。


 そんな岩見谷の一角に、翠園寺家は存在した。


「いやー……そりゃ噂には聞いてたけどねー」


 莉緒の案内で彼女の自室に足を踏み入れた千尋は、ぐるりと部屋を見渡してしみじみと呟く。半ば呆れたような声音になってしまうのは本当に呆れているわけではなくて、感心が一周回った結果だ。


「いざ来てみるとマジで広いなー……」


「私たちの場違い感がすごい」


 隣で琴音が同意を示す。小清水に至っては驚きのあまり目をまん丸に見開いたまま絶句していて、自分のいる空間が図書館や公民館の共用スペースなどではなく、民家の一室であることが信じられないといった様子だ。


 ――まぁ、無理もないけどねえ。


 雰囲気の魔法に頼るまでもなく翠園寺家は本物の豪邸だ。この部屋の中にあたしの部屋が四つはすっぽり入るよな、と千尋は苦笑いを抑えきれない。正直なところ、門の前に立った時点でけっこう気圧されていたのだ。


「実は、わたくしも持て余し気味なんですけどね」


 アイスティーのカップを机に人数分並べながら、はにかむような笑みをこぼす莉緒。ともすれば嫌味になりそうなセリフではあったが、部屋の様子を見る限り、それは謙遜ではなく事実なのだろう。


 たしかにスペースは広い。


 しかし、莉緒に兄弟姉妹がいないせいもあるのだろう、置かれている家具はどれも作りこそ良いものの大きさはさほどでもない。空間を有効に使えている、とはお世辞にも言い難かった。


「もっとでかい水槽置きゃいいのに。奥のアレって60cmっしょ?」


「私の部屋も二階だけど、90cmまでなら置けてるよ。ここなら90cmどころか120cmくらいは余裕でいけるんじゃない?」


 150cmと言わず120cmに留めるあたり器が知れるというものだったが、実際、琴音の読みはいい線を行ってはいる。120cm水槽をセットアップしたときの総重量は概ね三〇〇キロ程度であり、ということはグランドピアノが置ける場所であれば当然問題なく置ける。


 現実としてこの部屋にグランドピアノがあるわけではなかったが、一人娘のためにこれだけの広さを確保したのだ、それに類するデカブツを運び込めるような設計をしたに決まっていた。


 しかし、莉緒は首を横に振った。


「置くことはできるでしょうけど、わたくしは皆さんのように大きな魚を飼うわけではないので……水草のお手入れ、120cm水槽を一人でやるのは辛そうです」


 違いない、と琴音が笑う。あくまでも生体が主という点で莉緒と決定的に異なってはいるが、琴音もそれなりに自然らしいレイアウトを組みたがるタイプだ。トリミングやコケとの戦いに対して思うところはあろう。


「――ところで」


 本筋に切り込むという莉緒の合図、


「まずは現状の把握から始めたいのですが……天河さん、中間の点数はどのくらいだったんでしょうか?」


 ちなみに、中間考査が行われたのは五月の暮れだ。


 千尋にとっては、まともに莉緒と知り合って少し経った頃という言い方もできるし、小清水と出会ってから二週間くらいの頃という表現もできる。


 あのときの自分が何をしていたかと言えば、小清水へのアクアリウム講座を手伝いつつ、彼女との距離感に戸惑う琴音を面白がって見ていたわけで――


「三〇〇点くらいだったね」


「……あの。一応確認ですけど、全教科の合計点ですか?」


「うん、九教科合わせて三〇〇点ちょい」


 莉緒が微笑んだまま固まった。


 琴音が聞こえよがしに溜息をついた。


 一年生の一学期の中間考査の点数、である。中学の復習のような内容がかなりの割合で混じっていたそのテストは、学年全体の平均点がほとんどの教科で七〇点に迫るものだった。


 そして、亜久亜高校における赤点の定義は「平均点の半分以下」だ。


 若干の間があって、


「天河さん――」


 声の聞こえたほうに視線を向けると、小清水が青い顔でこちらを見つめていた。


「ごめんね、わたしのお魚探しに付き合ってくれたばっかりに……」


「いやいやいや、小清水ちゃんのせいじゃないからね! シンプルに授業聞いてなかったあたしが悪い!」


 途方もない罪悪感に襲われた。千尋は冷や汗まじりにバタバタと鞄を漁り、教科書とノートと筆記用具をテーブルの上にぶち撒ける。


「さあ、勉強会しよーか! 要は赤点さえ取らなきゃいいんだ!」


「前向きなんだか後ろ向きなんだかわからんな、おまえ……」


 琴音の小言が耳に痛い。しかし、自分が汚名返上できなければ皆が困る手前、千尋としてはなりふり構ってはいられない。


 これでまた小清水に責任を感じさせてしまうような結果になれば、琴音のチョップが脳天めがけて振ってくるに違いなかった。

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