第53話 部長が部活禁止なんて笑えないぞ

「――ってなわけで、あたしが部長っす」


 千尋が職員室を訪れたとき、佐瀬先生はちょうど小テストの採点をしているところだった。


 何が「ちょうど」なのかと言うと、A組では今日、三時限目に生物の授業があったのである。列の後ろから集められたあと佐瀬先生自らの手で出席番号に並べ替えられたのであろう答案は、その九割方がすでに採点を終えていて、デスクの隅のバスケットに放り込まれている。


 佐瀬先生の手元を覗き見ると、琴音の答案が目に入った。十問中九問正解。やっぱりやるじゃんあいつ――


「――うん、不備はないようね。それじゃあ残りの手続きは先生がやっとくから、キミたちはキミたちで始めちゃっていいわよ。第二理科室の鍵いる?」


 千尋は首を横に振って、


「や、とりあえず今日はまだいいっす。ちゃんと申請通ってからのほうが面倒ないでしょいろいろと」


 これが運動部であれば校庭に面した部室棟に固有の部室を持っているから、すぐに活動を始めたところで誰に何を言われることもあるまい。しかし、生物部の拠点となる第二理科室は思いっきり共用のスペースだ。他の教員や生徒に見咎められたら、いくらこっちに正当性があるとしても説明するのが面倒臭くてかなわない――というのが千尋の考えだった。


「何かあったときいちいち職員室まで呼びに来られても、先生だって鬱陶しくないすか?」


「人聞きの悪い表現しないでくれない? ……まあ、そうなったら仕事にならないってのは認めるわ。明日には受理されるだろうから、待ったほうが無難だとは思う」


 佐瀬先生はあっさりと引き下がった。


「……それにしても、」


 かと思いきや、


「天河さんが部長、ねえ」


「マズいっすか?」


「マズくはないんだけど……」


 眉間にしわを寄せて瞑目。腕を組み、なにやら真剣な調子で唸りはじめる。


「や、そこで悩まれるとあたしとしても気持ち悪いんすけど。そりゃ委員長どのと比べりゃ頼りないかもしれませんけどね、あのヒト忙しくなっちゃうし、残りのメンツ考えたらやれるのあたしだけっすよ」


 皆には時期尚早だと思って言わなかったが、千尋には一点、懸念していることがあった。


 校内のイベントである。


 生物部にとっての「本命」は市のアクアリウムコンクールだが、それはあくまでも当面の話だ。仮に校長の目論見どおりコンクールで学校の知名度を上げることができたとすると、来年以降の新入生として集まってくるのは当然、生物部でアクアリウムをやりたい子たちであるはずなのだ。


 ということは、生物部は来年以降も存続していかねばならない。


 入部してくる下級生が相手なら、いくら琴音でも人見知りを発動することはないかもしれない。しかし、問題はその一つ前の段階、部活発表会である。


 ――大勢の前で発表すんのにコトや小清水ちゃんが向いてるかって言ったら、そりゃまた別の話だしなあ……。


 新入生は毎年二百人以上はいる。その全員の前に立つとなると琴音には荷が重かろうし、小清水のほうはアクアの魅力を他人に説明できるレベルまで到達するかどうか未知数だ。


 どう考えても自分がやるのがベストなのだ。


「――そうね」


 ところが、静かに目を開いた佐瀬先生は、オフィスチェアを回転させて体ごと向き直ってこう言った。


「でも天河さん、ぶっちゃけキミ、今のところ最有力の追試候補生よ」


「へっ?」


「来月の期末考査で悪い成績取られたら、さすがに『部活に力を入れてください』とは教師として言えないわ。――もう一週間ちょっとしかないけど大丈夫?」


「……まじすか」


「赤点を取った者は追試。追試で八〇点以上を取らない限り部活への参加は禁止。今日の授業でも言ったはずだけど……まさか舟漕いでたんじゃないでしょうね」


「いやいやまさか覚えてますって冗談キツいなぁもう。大船に乗ったつもりで任せといてくださいよ!」


 ははは、と千尋は笑ってみせる。


 だが、佐瀬先生の表情が晴れることはなかった。


「大船と言われてもねぇ……」


 佐瀬先生は机に置いてあるバスケットへと手を伸ばした。紙束をひっくり返して一番上の用紙を取り、千尋の眼前に突きつける。


「キミのぶんは採点終わってるから、もうここで返却しちゃうわ。……わからないところがあったら、休み時間でも放課後でも遠慮しないで聞きに来なさい」


 十問のうち、丸がついているのは二箇所しかなかった。




「アホか――――っ!!」


 B組の教室に戻って事の顛末を説明するや否や、琴音の怒号が火を噴いた。


「おまえのこと見直した私がバカだった! あの小テスト、難しいのは最後の演習問題くらいだったろ。暗記もできてないのは勉強してない証拠だ!」


「まあまあ、巳堂さん……苦手分野は誰にでもあるよ、ね?」


「アクアリストが生物苦手であってたまるか! こいつは単にふまじめなだけだっ」


 小清水が必死に宥めているが、効果の程は焼け石に水といったところだ。


 正直なところ、今日の小テストに魚類の問題は出ていなかったので、解けなかったからといってアクアリスト失格というものではないと思う。思うが、それを指摘するのは琴音の怒りに油を注ぐようなものだろう。


 不勉強なのは事実だ。千尋は素直に頭を下げることにした。


「いや、実に面目ない」


 琴音は荒々しく溜息を吐き出して、


「……で、実際どうするんだ。部長が部活禁止なんて笑えないぞ」


「コトが教えてくれるっていうのは――」


「小学生のときも中学生のときも、おまえすぐに寝ちゃって結局私が一人で問題解くだけになったじゃないか。佐瀬先生の言うとおり、聞きに行ったらどうだ?」


「いやー……今あたしがマジでわかんないとこ聞きに行ったら、瑞穂ちゃん先生たぶん泣いちゃうぜ。自分の授業がそんなにわかりにくいのかって」


「自慢げに言うことか!」


 そのとき、真横から手を打ち合わせる音がした。


「――では、こうしたらいかがでしょう?」


 莉緒だった。


「次の土日、わたくしの家で勉強会をしましょう」


「翠園寺さん、だからこいつは――」


「巳堂さんはきっと、天河さんにとって馴染みが深すぎるんですよ。わたくしと小清水さんの目もあれば、眠くはならないと思います」


 莉緒はそのように言葉を結んだ。ひとまず納得がいったのか、琴音が無言でじろりと、小清水が探るように、それぞれ千尋に視線を投げかけてくる。


 こうなると、あとは千尋の肚一つだ。


 もちろん、異議など唱えられる立場ではないのだった。

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