第74話 マジでちゃんとやれてんじゃん
「う~~む……」
湊真凜と琴音が入っていったアパートの斜向かいは児童公園になっていて、タコの形をした遊具の陰に入ってしまえば、距離の近さにもかかわらずアパート側からはまず気づかれずに様子を観察することができる。
二人の背中がアパートの共用通路に消えていくのを眺めながら、千尋は胸中の感慨を唸り声に乗せた。
距離が近いとはいっても、さすがに会話の内容までは聞き取れなかった。聞き取れなかったが――
「……なんだ、マジでちゃんとやれてんじゃん」
遠い日の記憶が脳裏をよぎる。
幼稚園に通っていた頃、送迎のバスを待つ間の自由時間。鬼ごっこの輪に加われず壁際に座り込んでいた琴音の手を引いてホールを抜け出し、西日の差す園庭で生き物を探し歩いたこと。
知り合ったきっかけではなかった気がするし、たぶん琴音だって覚えてはいないだろうが、千尋の中に残る一番古い思い出はそれだ。
琴音の手を自分が引っ張ってやらねばならないと、あの日からずっと思ってきた。
もしかしたら、もうそんな必要はないのかもしれない。
あいつはもう、一人で歩いていけるのかもしれない。
「そっかー……あのコトがなぁ……」
いいことなのだろう、とは思う。
これまではたまたま常に同じクラスに振り分けられてきたものの、この先の進路はきっと別々だ。離れても連絡くらいは取れるけれど、いつもいつまでも一緒にいられるわけではないことくらい、千尋はとうに意識している。
だから、バイトを契機に琴音の人見知りが治るなら、それは自分たちにとって喜ばしいことなのだ。
――ただなぁ……。
千尋はおそるおそる視線をスライドさせる。
タコ山の穴から顔を出す自分の隣で、やはり同じように外を覗き込んでいる小清水。サングラスに遮られた目元こそ確かめられないが、案の定と言うべきか普段よりも肩が小さく感じられる。
「だいじょーぶ、小清水ちゃん?」
「えっ? ――うん、べつに具合悪くなったりはしてないよ」
「そういう心配をしたんじゃねーんだけど……」
「巳堂さんが楽しそうで、わたしも安心しちゃった。――そろそろ帰ろ? 二人のお仕事いつ終わるのかわからないんだし、ここでじっと待ってても仕方ないよ」
「……ま、それはそーだねぇ……」
とは言うものの、小清水がガッカリしていることは千尋の目から見れば明らかである。いじらしくも本人は隠しているつもりらしいが、その試みが成功しているとはお世辞にも言い難い。
千尋は数ヶ月前、そんなに小清水を取られなくないのか、と琴音をからかったことがある。
――こりゃあ見誤ったかね……?
どうやら逆だったらしい。
考えてもみれば、そもそも小清水がアクアリウムを始めたのは「一人が寂しかったから」なのだ。そういう人懐こさを元から持っている小清水が、今のような状況を本心から歓迎するはずもない。
そして琴音のほうはといえば、そのあたりの機微を感じ取れるほど勘が鋭いわけではないのだった。
「世話の焼ける二人だねー……ま、面白いんだけどさ」
ひと足先にタコ山を出ていった小清水の背中を見つめながら、千尋は誰に言うともなく呟いた。
◇ ◇ ◇
「いらっしゃいませ! ――あら」
「おっす、翠園寺さん」
小清水が隠したがっている以上、あまりこちらからグイグイ攻めるわけにもいかない。琴音への用事はやはり日を改めると主張する彼女と別れて、千尋は
カフェ「アネモネ」である。
ほぼ同じ時期にお互いの紹介でアルバイトを始めた莉緒と琴音だが、琴音に比べれば莉緒はまだしもLANEへの浮上頻度が高い。千尋はそれを利用して、電車の中で莉緒へのアポイントを取ったのだった。
「わたくしと天河さんだけのチャットルーム、久しぶりに使いましたわね」
「コトと小清水ちゃんには聞かれたくない話だからねぇ」
店内ではゆったりとしたBGMがかけられていて、それ以外にもこぽこぽという聞き覚えのある音が響いている。
二種類の音が重なる中を突っ切って、千尋はカウンターの席に腰掛けた。
「注文はアイスコーヒー二つでヨロシク」
「二つ、ですか?」
「二人でお話すんのにあたしだけ飲んでるの気まずいじゃん? 一緒に飲んでくれたら助かるなーって……あ、それとも別の飲み物のがいい?」
「いえ、そうではなくて。わたくしのぶんはわたくし自分で、」
「いーのいーの。相談聞いてもらうお礼って意味も兼ねてるんだから」
相手が良家のお嬢様だという事実は重々承知の上である。決して莉緒自身の手持ちが多いわけではないのだ、現に彼女はこうしてアルバイトしているではないか――己にそう言い聞かせながら、千尋は本題を切り出した。
「バイトするのは全然いいと思うけど、あんまりこっちを放っておかれてもそれはそれで困る、みたいな話だよ」
「あっ……ごめんなさい。レイアウトも決めなきゃいけないのに……」
「いやいや翠園寺さんじゃなくてコトね問題は。どうもあいつ、一つのことにのめり込むと周りが見えなくなっちまうみたいでさぁ」
こぽこぽ。
千尋は一瞬だけ音のほうに目をやる。フロアの隅には45cmレギュラーと思しき水槽が置かれていて、上部フィルターからの排水音が絶え間なく流れ続けている。
青みがかったライトの光に照らされたカクレクマノミの群れ。イソギンチャクと戯れる魚たちの視線を感じながら、千尋は再び口を開く。
「とりあえず……湊さんってどんな人なのか、あたしに詳しく教えてくんない?」
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