第73話 とんでもないイクメンなんですね
芭路二丁目のバス停で降車し、細い生活道路に入って二分ほど歩くと、琴音の視界に目的の家が見えてきた。
家とは言うが、実際には三階建ての集合住宅の一室である。
「一〇八号室の住人が今回のお客様です」
アパートの前で落ち合った真凜は、抑揚の乏しい声でそんなふうに説明した。
「何度もご利用してくださっているリピーター……いわゆる常連客の方でして。ペットサービス込みでの依頼ですから、巳堂さんのスキルを存分に活かせる仕事かと思いますよ」
「ってことは、アクアなんですか?」
「ええ。これまで私が水槽管理のお手伝いをさせていただいていたのですが、やはり淡水の生き物のお世話は淡水系のアクアリストのほうが手慣れているでしょう」
「あ、やっぱり湊さんもアクアリストだったんですね」
これまで何回か現場を共にして、もしかしてとは感じていたのだ。ペットサービスで水槽を弄るときの真凜の手つきには迷いがなかった。あれはとても未経験者の為せる業ではない、と琴音が確信するくらいに。
「今の言い方からすると、海水水槽ですか?」
「ヨウジウオの仲間を少々。動画もありますが、ご覧になりますか?」
琴音はスマートフォンを一瞥し、時間の表示を確かめる。バスが予想よりもスムーズに運行したおかげか依頼人との約束の時刻までにはまだ十分ばかりの余裕があって、真凜とアクア談義をするくらいの時間は残されている。
「見たいです!」
勢い込んで答えると、真凜は結んだままの唇にかすかな笑みを浮かべて、自らのスマホを手渡してきた。
開かれたアルバムアプリが動画の再生を始める。
ファーストカットは遠景。水槽は30cmキューブ、フィルターは外掛け式、照明はスポットライト式のLED一灯。水槽内は白い砂とライブロックによって珊瑚礁めいたレイアウトに整えられている。
カメラが寄っていく。
鮮やかなレモンイエローのボディを揺らして泳ぐ生体の、魚類らしからぬ直立したシルエットがアップになった。
「あっ……ヨウジウオって何かと思ったら、タツノオトシゴのことなんですね」
「正確には、ヨウジウオ科に含まれる一種としてタツノオトシゴがいる、という感じでしょうか。私が飼っているこの子たちは『カリビアンシーホース』といいます」
水流の中に身を漂わせながら、二匹のタツノオトシゴ――カリビアンシーホースはときおり体を折り曲げるようにして、細かな白いものを長い口で吸い込んでいる。
「色のバリエーションとしては他にオレンジがありますね。私も最初はオレンジを買おうと思っていたのですが、行きつけのショップにイエローのペアしか入荷していませんでしたので、こちらを」
「ネットで探さなかったんですか?」
「もともとそんなにこだわっていたわけではありませんでしたから。イエローで満足していますよ、いかにも海水魚というハッキリした色合いで」
「ああ、わかります。海水魚ってほんとにビビッドですよね。たしかにこの黄色は海水魚感あるなあ……」
「育てていると愛着が湧きますね。今は八センチを切るくらいで、おそらくこの水槽でもあと少しは大きくなってくれるのではないかと」
「最大何センチなんですか?」
「十五センチほどと言われていますね。もちろん飼育下ではそこまでにはならないとしても」
「なるほど……」
ふよふよと進んだり止まったりを繰り返すタツノオトシゴ。見ているだけでも遊泳をそれほど好まないのだろうと理解できる。
動画の冒頭で映った水槽のレイアウトは、泳ぎの不得手さを助けるためのものに違いない。細長く伸びたサンゴの枝を置いているのは、きっとタツノオトシゴたちが尻尾を絡めて体を固定できるようにという配慮だ。
こういうタイプの魚であれば、小型水槽での複数飼育でも手狭にはなるまい。
「この、さっきから吸い込んでる白いのはブラインシュリンプですか?」
「イサザアミです。ホワイトシュリンプとも呼びますね。海水魚飼育ではよく使われるんですよ」
タツノオトシゴは完全肉食性の魚なのだ、と真凜は語る。
「ストローのように細い口ですからプランクトン食なのかと思っていたのですが、いざ飼ってみると案外獰猛だとわかりまして。吸い込めるかどうか微妙なサイズの獲物でも襲いにかかるんですよ。あれは見ていてハラハラしますね」
「肉食魚あるあるですね。でもタツノオトシゴだとたしかに詰まっちゃいそうで心配かも」
「まあ、結局はちゃんと吸い込んでくれるのでホッとしますよ」
動画が終わり、アルバムの画面が切り替わった。ずらりと並んでいるのは全部タツノオトシゴ水槽の写真で、真凜の入れ込みようが察せられる。
「ペアで飼ってるってことは、繁殖狙ってるんですか?」
すると真凜は頷いて、
「そろそろ交尾してくれるんじゃないかと期待しているところです。――そうそう、繁殖といえば」
口元の笑みに意味ありげな色が加わる、
「知っていますか? タツノオトシゴはオスが出産するんですよ」
「へえ、オスが……え、オスが!?」
琴音は目を丸くした。
「えっと……だったらそれはオスじゃないんじゃないですか……?」
琴音は困惑して眉間に皺を寄せる。生物学的に考えるなら、「メス」とは子を産むほうの性別のことではないのか。
ところが、真凜は表情を変えずに首を振った。
「オスとは小さい配偶子を生産する性のこと、メスとは大きい配偶子を生産する性のことです。――タツノオトシゴの繁殖についてより詳しい話をさせていただくと、卵を産む役割自体はメスなんですよ」
真凜の解説を総合すると、タツノオトシゴの交尾は概ね次のとおりに推移する。
――まず、メスが卵を作る。
ここまでは他の多くの生き物と変わらない。卵そのものはあくまでもメスの腹の中で生産されるから、生物学的なオスメスの定義とも矛盾しないわけだ。
――次に、メスは作った卵をオスの腹へと受け渡す。
タツノオトシゴは互いの腹をくっつけるようにして交尾する。このとき何が行われているのかというと、メスがオスの体内に卵を産みつけているのだそうだ。
――オスの体内には「育児囊」と呼ばれる袋状の器官がある。卵が収まったら、オスは育児囊内に精子を放って受精させる。
――ここまできたら、あとは卵から孵った赤ちゃんが成長してオスの体外に出るだけだ。オスのお腹は交尾から二週間ほどかけて膨らんでいき、そして出産に至る。
「一度の出産で生まれる数は百匹から千匹と言われています。それだけの稚魚がオスのお腹の中で育つんですよ。面白いでしょう?」
「はい。海水魚の方面は調べたことないので初めて知りました……タツノオトシゴのオスって、とんでもないイクメンなんですね」
琴音の口から感嘆の吐息が漏れた。タツノオトシゴの生態の興味深さゆえ――というのもそうだが、半分は真凜に対しての敬意である。
アクアリウムに関する限り、教わる感覚は久しぶりだ。
淡水魚にまつわることならそれなりに網羅しているつもりでも、海水魚の知識となると決して明るくはないのだとつくづく思う。この世にはまだまだ自分の知らない魚がたくさんいるのだろう。
これだから、アクアリウムは楽しい。
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