第72話 後をつけてみようぜ

 実を言えば、亜久亜高校の生徒手帳を何遍読み返しても、夏期休暇中に登校するとき制服を着用しなければならないという規定の記載は見当たらない。にもかかわらず天河あまがわ千尋が制服を着て水槽チェックに向かったのは、単純に彼女がハッキリとオンオフ切り替えることを好むためだ。制服を着るのは学校に行くとき、私服を着るときは遊ぶとき――先日のガサガサみたいなグレーなケースを別にすれば、千尋の頭の中ではそのように線が引かれている。


「――ってなわけで、日淡とザリガニの水換え済ませてきたよん。オートフィーダーもクーラーも問題なくバリバリ動いてたし、あれならチェックに行くの週一でいいかもねー」


「お疲れ様。次の当番はわたしだね」


 笑みを向けてくる小清水が、胸の前で小さく拳を握りながら「しっかり見てくるよ!」などと意気込むのを、しかし千尋は意外なものを見る目で眺める。


 もちろん「小清水では心配だ」などと思っているわけではない。たしかにまだまだビギナーには違いないが、彼女とて今や生体を飼育している身。設備のチェックと水換えくらいは難なくこなしてもらわねば魚が困る。


 千尋が気に留めたのは、小清水の笑顔にどこか陰りがあることだ。


 いつもならこちらまで幸せになりそうな柔らかい笑みを浮かべる小清水なのに、どうしてか今日は彼女の笑みがしゅんとして見える。


 そして、巳堂家の軒先というロケーションである。


 ――十中八九、コト絡み……だよなぁ。


 千尋はそう確信しつつ、改めて水を向けた。


「んで、小清水ちゃんはコトんちに遊びに来てたの?」


 すると小清水は眉尻を下げて、


「ちょっとお話ししたいことがあって。……でも、都合のよくないときに来ちゃったみたい。やっぱりLANEとかでちゃんと約束しとかないとだめだよね、うっかりしてたよ」


「んー……まぁしょうがないっしょ、あいつ最近メッセージよこさねーし」


 ――ビンゴだ。


 琴音がアルバイトを始めた話は千尋も本人から聞いている。


 共働きの両親をもつ琴音は、必然的に普段から掃除や洗濯をやっている。それだけに家事代行の仕事はなかなか悪くないチョイスだというのが率直な感想だった。少なくともファミレスやコンビニの店員と比べれば、琴音の苦手とする対人スキルが要求される機会はまだしも少ないはずだから。


 しかし、LANEと言われてみればたしかに、琴音はこのところ連絡の取れない日が増えた。メッセージを送れば既読はつくから、こちらの要件を伝えることだけはできるのだろうが――


「コトも忙しいんだろうけど、返信がないのはどうしたって味気ねーからなあ。直接会って喋りたいってのはわかるよ」


「ほんの少しだけど、さっき喋れたことは喋れたよ。巳堂さん、湊さんとうまくやれてるみたいだった」


「芽山で顔合わせたときからしてわりと相性悪くなさげだったっぽいしねー。あたしは直接会ったことねーけど、翠園寺さんとも近いわけだし、いい人なんだろね」


 とは言いつつ、あの琴音が本当にうまくやれているのかはけっこう疑問だと内心信じがたさを禁じ得ない千尋である。


 芽山沼では莉緒の手前「湊真凜は琴音の人見知りが発動しない相手だから大丈夫」としておいたが、あれは結局のところ「たぶん」に過ぎない。莉緒が姉のように慕う存在だというから実際できた人なのだとは思う一方で、見てもいない人について断言できるわけがないのも事実だ。


 ――つか、コトのほうが迷惑かけてねーかも心配なんだよなぁ。


 琴音のことだ。基本的な礼儀や仕事ぶりでトチることはないにしても、中途半端に関係が詰まったときのぎこちない態度によって湊真凜に気を遣わせてしまう可能性は考えられる。


「……ところで、小清水ちゃんのしたい話ってのはできたの?」


 果たして、小清水は首を横に振った。


 もしも彼女に犬のような耳と尻尾があったらぺったりと垂れていそうな、そんな寂しげな色が垣間見えた。


 ――うーん、ひょっとしてこれは……。


 春からというもの、琴音の中で小清水の存在が日に日に大きくなってきていたのは端で見ていてもわかった。


 では、逆はどうなのか。


「――おし」


 心のモードが切り替わる感覚、


「コトのやつ、どこに行くとか言ってた?」


「へっ? ええっと……芭路って言ってたかな。お仕事で現地集合なんだって」


「チャリ?」


「ううん、走って行ったよ」


「ほーん……」


 おそらくバス停に向かったのだ、と千尋はアタリをつける。芭路の周辺には鉄道駅がないから、自転車もなしに急ぐなら車に頼るしかない。そして、琴音の懐事情ならタクシーはあり得ない。


「小清水ちゃん、時間空いたんでしょ? だったらちょっと待っててくんねーかな、あたしすぐ着替えてくっからさ」


「? うん、いいけど」


 大きな目をぱちくりさせる小清水に対して、千尋はいかにも意味ありげに白い歯を見せる。


 まるで、子供が悪巧みでもするかのような表情。


「後をつけてみようぜ。コトが湊さんとどういう感じで付き合ってんのか、小清水ちゃんも気になるっしょ?」




 琴音の姿はすぐに見つかった。千尋の予想したとおり、停留所の列に並んで今にもバスに乗り込もうというところであった。


 千尋と小清水は列の最後尾に滑り込むと、琴音に悟られないよう注意を払いつつ車内へと続く。三つ間隔を開けた斜め後ろの席に座ってほっと一息、


「……天河さん、これ変装になってるかなぁ……?」


「細かいことは気にしなーい。気づかれてないんだから問題ナッシングだよ」


 サングラスをかけた二人と何も知らないターゲットを乗せて、バスは住宅地へと入ってゆく。

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