第71話 また今度でいいかな

 熱帯のアフリカに棲まうテトラオドン・ミウルスといえど、さすがに水温が三〇度を超える環境は体に悪いらしい。ネットの記事を複数漁った小清水はそのように結論づけて、行きつけになりつつある「AQUAアクア RHYTHMリズム」へと足を伸ばした。


 つまり、辰守駅の界隈に。


 すなわち、琴音の家の近くに。


「巳堂さん、いるかなぁ?」


 冷却ファンの入ったビニール袋を揺らしながら、小清水は巳堂家の門を潜る。


 水槽にファンをつけるとどの程度の効果を得られるのか、それはどのようなメカニズムによるものなのか、琴音の説明を聞きたかった――というのは口実で、本音を言えばそろそろ琴音の顔が見たくなったというのが理由だ。


 ――夏休みは嬉しいけど、学校の友達とは会おうとしなきゃ会えなくなっちゃうもんね。


 ――同じ場所にいなきゃできないことだってあるんだし。


 小清水はスマートフォンでブラウザを立ち上げ、あらかじめブックマークしておいたページを再び確かめる。ページにはあるイベントの情報が掲載されていて、タイトルは「第三四回 栗鼠追夏祭りのお知らせ」とある。


「変なの。住んでたときは行こうなんて全然思わなかったのに」


 夏祭り、である。


 小清水の実家がある栗鼠追町では、盆の期間に花火大会が開かれるのだ。


 町のイベントの中では最も有名で、毎年町民と観光客とを合わせて三十万人くらいの人出があると言われているのだが、思い返せば小清水は積極的に足を運んだためしがない。これといって避けていた意識はなく、さりとて行くモチベーションも特になく、父や母が行こうと言ったときだけついていくといった趣だった。


 花火はきれいだと思うし、人混みがダメというわけでもない。


 それでも行かなかったのは、今行かなくてもこの先いつでも行けると無意識に考えていたからだろうか。


 ずっと住んできた町のことなのに、離れてからのほうが興味を惹かれるのはなんだか不思議だ。


「でも、巳堂さんが喜んでくれたらいいよね」


 要するに小清水は、花火大会に琴音を誘おうと思いついたのだ。


 今までのお礼を込めてという意味もあるし、最近アルバイトで忙しそうな彼女を労うことにもなるだろう。


 何より、友達といっしょに花火を見るというのは、すごくいい思い出になりそうではないか。


「さすがにお盆ならアルバイト休むだろうしね」


 小清水はインターホンに指を伸ばし、ボタンを押し込もうとした。


 押すまでもなかった。


 突然がちゃりと玄関の扉が開いて、琴音が姿を見せたのだ。


「ひゃっ!」


「うわっ!?」


 いきなりのことに小清水は驚き、琴音もまったく予期しない邂逅に目を白黒させる。双方わずかに身を引いて後、一歩早く我に返ったのは琴音であった。


「え、小清水さん? 何してるんだこんなところで」


「あ……うん、ちょっと相談したいことがあって」


 すると、琴音は小清水の手にしたビニール袋へと視線を落として、


「冷却ファン買ったんだ? よかった、まだ買ってないようなら勧めなきゃいけないなと私も思ってたところだったから」


「そうなの?」


「アクアリストが一番気を揉むのは夏の暑さだと言っても過言じゃないんだ。私がバイト始めたのだってクーラー買うためだぞ」


 そういえば琴音は以前、いいクーラーを調達しようとしたら諭吉が五枚は飛ぶ、といった意味合いのことを語っていた。なるほど、アルバイトによる収入でもなければ高校生に手が出せる額ではない。


 ――って、違う違う!


 小清水はふるふると軽く首を振って、いつもの流れに身を任せそうになる自分を叱咤した。


 琴音のアクアリウム講座は聞いていて飽きないけれど、今日はそれを本題にするつもりで来たわけではないのだ。


「あのね巳堂さん、話したいのは別のことで……」


「――あ、バイト!」


 しかし琴音は、自身の発言から重要な情報を拾い上げてしまったようで、


「ごめん小清水さん、また今度でいいかな」


「えっ?」


 琴音は持っていた鍵を錠に差し込んで回しながら、


「今日はバイト入れててさ、現地集合でこれから芭路ばろまで行かなきゃいけないんだ」


「そ、そうなんだ……やっぱり忙しいんだね」


 小清水は落胆を表に出さないよう努めて微笑む。


 芭路となると、小清水のアパートのある屋敷ヶ丘とは逆方面である。遊ぶ場所があるわけでもなく知り合いのいる地区でもないから、「わたしもついていくよ」と切り出すのも不自然だ。


 ――巳堂さんの言うとおり、また今度で大丈夫かなぁ?


 ――お盆までにはまだけっこう時間があるし……。


 小清水はそんなふうに結論づけて、うん、と己を納得させるように頷いた。


「わたしのほうこそ、いきなり来ちゃってごめんね? アルバイトがんばってね!」


「さんきゅ。――じゃあ、また!」


 小清水の眼前を横切って、琴音は黒髪を靡かせながら去っていった。


「…………」


 小清水はひとり、巳堂家の玄関の前に立ち尽くす。


 網膜に焼きついたのは、至近から見えた琴音の横顔。その表情に漲る、確かな充実感に裏打ちされたある種の生気だ。


「――うん、巳堂さんが楽しくお仕事できてるならいいよね」


 小清水はくるりと踵を返す。


 琴音の家族に挨拶くらいしていこうかと一瞬考えがよぎったが、琴音が戸締まりをしていったことを思えば両親は在宅ではないのだろう。自分がこうして日中ぶらついていられるのは夏休みだからであって、あいにくと世間は平日なのだ。


「帰ろっと。ファンも設置しなきゃだし」


 まるで誰かに言い訳でもするかのごとくひとりごちて、来たときとは反対側に巳堂家の門を潜った。


 道路に出たそこで、声が投げかけられた。


「あれ、小清水ちゃんじゃん。何やってんの?」


 小清水は顔を上げる。


 制服姿の千尋が、思いがけないものを見たと言わんばかりに目を丸くしている。

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