第70話 一旦帰ってくるといい
アルバイトを始めるにあたっては何やら複雑な手続きを踏まねばならないのではないかと心配していた琴音だったが、実際にはマイナンバーと学生証と給料振込先の口座を用意するだけで済んでしまった。
ガチガチになりながら臨んだ面接はいざ受けてみると簡素なもので、三つ四つの質問に回答したその場で採用を告げられた。
そういうわけで、琴音は現在、支給された制服とエプロンを着て、見知らぬ民家の前に立っている。
――
「ほら、縁が繋がっていたでしょう?」
「そ、そうですね……」
つまりどういうことかというと、莉緒の紹介してくれたアルバイト先は真凜の所属する家事代行業者だったのだ。
「面接にいらしたのは一昨日でしたか。ずいぶん緊張していたと聞いていますが……どうやら今も少し硬いように見えますね」
「まあ、その、初めてなので……」
「うまく仕事ができるかどうか不安ですか?」
沢で初めて出会ったときから印象的だとは思っていたが、真凜は口元だけを動かすような独特な笑い方をする。眠たげな目は微かにしか動かず、それがために笑うときだけは大きく見えて、吸い寄せられるような深みを湛えて光るのだ。
「大丈夫ですよ。短期の高校生アルバイトを一人でお客様のところに向かわせるような無茶は、うちはやらないので」
真凜の表情はどうにも底が知れない。しかし彼女の声音はしっとりと優しい響きを帯びていて、聞いているとこちらまで落ち着いてくる。
「もちろんお仕事ですから、お給料分の責任は果たしてもらいますが……基本的には私の補助と考えてください。ちなみに家事はどのくらいできます?」
「ええと……掃除とか買い出しならできると思います。洗濯もいけるかな……あ、食事を作るのはあんまり自信ないです」
琴音の脳裏に先日のザリガニ料理の一件がよぎった。野菜の切り方が粗いというダメ出し。よりによって
真凜は「わかりました」と頷いて、
「ではお食事作りは私が受け持ちましょう。もしそのとき巳堂さんの手が空いているようなら、台所に来てください。横で見ているだけでも案外覚えるものですよ」
「助かりま……あ、いや、見てるだけなんてそんな。そのときは私もちゃんと手伝います」
このアルバイトの条件は時給一〇五〇円である。つまりは拘束時間に対してお金が支給されるわけで、いくら未経験者とはいえ見ているだけではあまりにも悪い。
ところが次の瞬間、真凜は「ふふっ」と声をたてて笑った。
「――ええ、その意気です。緊張もほぐれたみたいですし、そろそろ行きましょうか」
真凜は歩を進め、カーキ色に塗装された塀の門を潜って玄関へと近づいてゆく。琴音は彼女の後ろにぴったりとついて歩き、扉の前で立ち止まった。
「挨拶はハッキリ、ですよ」
「はい」
真凜の指が扉の脇のインターホンへと伸びた。
ボタンを押す直前、真凜は一度、琴音のほうへと向き直って、
「そうそう。うちの会社ではペットサービスも承っているのですが、そうした依頼で私が回されるのは水モノなんですよ」
――まじか。
「そこに関しては大いに頼りにさせていただきますよ。何と言っても生物部のアクアリストさんですものね」
「……頑張ります……!」
もしかすると、イメージしていたよりも自分はずっと役に立てるかもしれない。
心の天秤が不安から期待へと傾く。
琴音はワクワクした気持ちで、真凜がインターホンを鳴らす音を聞く。
◇ ◇ ◇
充電器を挿しっぱなしにしていたスマートフォンが電話の着信音を鳴らしたとき、
今は、部屋に一人でいても他人の声が恋しくない。
テトラオドン・ミウルス――うめぼしと名付けた赤褐色の魚が、水槽の中からしっかりと存在感を発揮してくれるおかげである。
それでも、スマホに表示された相手の名前を見るや否や、小清水はぱっと顔を明るくした。
「あっ、お母さんだ」
固定電話からではなく、自分のスマホからかけてきている。LANEを使えばいいのに――小清水は小首をかしげるが、考えてみればSNSどころかスマホアプリ全般に疎い母が無料通話機能を知っているとも思えない。今度帰ったときいろいろ教えてあげようと密かに決める。
画面をフリックして通話をオンにすると、もう随分懐かしい気がする母の声が耳に届いた。
『もしもし、由那? お母さんだけど』
「どうしたの?」
『お盆はこっちに帰ってくるのかと思ってね』
まったく想定外の一言だった。「今度帰ったとき」の「今度」とは、小清水としては正月のつもりだったのだ。
そもそもの話として、小清水家には墓参りの習慣がない。これはなにも先祖への敬意がないとかそういうことではなくて、墓が母方の実家の近く、すなわち遠い青森の地にあるのが理由だ。たいして長くもない盆休みに青森と
にもかかわらず、帰ってくるのかとはどういうことだろう。
「どこかに行く予定でもあるの?」
『いや、そうじゃないんだけど……あんた春に寂しいとか言ってたから、ホームシックにでもなってるんじゃないかと思ってねえ』
――あ。
ゴールデンウィークが明けた頃、たしかにそんな話をした。そこでペットを飼おうというアイデアが出て、おじいちゃんが水槽を送ってきて――
「もう平気だよ。こっちにお友達ができたんだ」
『友達? ……あら、そうなの。良かったじゃない』
とは言いつつも、母の声音はそれほど弾んでいない。
どうしたんだろうと小清水が訝っていると、電話口から「あ、ちょっと!」と焦ったような言葉が聞こえて、
『もしもし、由那。お父さんだ』
やはり数ヶ月ぶりに耳にする声。どうやら半ば強引に電話を代わったらしい。
『ここ最近、お母さんは晩メシのとき由那の話ばっかりでな。一人でしっかり生活できてるかとかクラスにちゃんと馴染めてるかとか』
「……うん?」
『まあ、だから、顔を見せに一旦帰ってくるといい。もちろん由那の予定が空いてればだが』
なるほど、そういうことか――小清水は思わず口元を緩める。
春にはこっちが寂しくて電話したのに、なんだか立場が逆になってしまったみたいだ。
「じゃあ、帰ろうかな。部活の皆と相談してスケジュール調整しないとだから、何日に帰れるかはまた連絡するね」
理科準備室の水槽は餌やりと温度管理を自動化してある。が、だからといって休みの間ずっと放置していられるわけでもない。水換えを行わなければならない手前、結局は三日に一度くらいのペースで様子を見に行ってやる必要があるのだ。
琴音と莉緒がバイトを始めたことはLANEで本人たちから聞いているし、実際ここ数日は忙しいのか二人のチャット浮上率は極端に落ちている。このうえ自分まで予定が入るとなると、千尋に負担が集中することになる。
――それに……。
小清水はくるりと視線を巡らせて、うめぼしへと目を向けた。
泊まりがけで家を空けるならば、うめぼしの世話についても対策を行わねばなるまい。
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