第27話 「落ちる」って、なあに?

「――さてと」


 千尋はしばしプレコのコケ取り能力について莉緒と談義していたが、落ち着いたところで唐突にこちらへと振り返った。


「小清水ちゃんの水槽は60cm規格だから、プレコだとぶっちゃけ、小っこいのをペアで飼ったりとかのほうがオススメなんだけど……」


「そうなの?」


「中型ってなると体長十五センチから三〇センチあたりっしょ? 三〇センチまで育つんなら90cm水槽で飼ってあげたほうがいいと思うんだよねー……でもまあ、たとえばコイツはいけるかな」


 ムック本を開いて突きつけてくる。


 プレコ図鑑というタイトルに偽りはないようで、それぞれのプレコが写真つきで紹介されていた。月刊アクアキューブ編集部が発行した本であることを考えると、もしかしたら雑誌の特集企画を再編集したものかもしれない。


「ええっと、オレンジフィン・カイザープレコ?」


 千尋が指したページには、黒い体をもつプレコの写真が掲載されていた。


 黒い体といっても、千尋のブラックアーマードプレコとは印象がずいぶん異なる。オレンジフィン・カイザープレコの鱗はざらついていそうでこそあるが、全体としてのっぺりしていて、甲冑のような刺々しさはない。アーマードプレコがなぜ「アーマード」と名付けられているのかが今更ながらに理解できる。


 もっとも、小清水を瞠目させたのは別の特徴であった。


「黄色い水玉……ディスカスを見たときも思ったけど、こんなにくっきり模様が出るんだね」


「ちゃんとブラジルの川にいるんだぜ、そいつ。色が鮮やかな熱帯魚はたくさんいるけどさ、交雑種でもないのに描いたみたいな模様が出てるのはスゲーよね」


 小清水が無言で、しかし勢い込んでこくこくと頷く。


 まあ気持ちはわかるな、と琴音は思う。


 千尋の言うとおりだ。色合いがビビッドであるというのは、感動を覚えはしつつもまだ納得もできる。だが、熱帯魚の中には稀に、何者かの意思によってデザインされているとしか思えない模様をもつ魚がいるのだ。


 中でもプレコは「そういう魚」の宝庫と評しても過言ではない。


 過言ではない、のだが――


「なあ」


「ん? どした、コト?」


「私の記憶違いじゃなければ、オレンジフィン・カイザープレコって玄人向けって評判じゃなかったか?」


 琴音の口にした「玄人向け」とは、一見地味だけれども分かる人間には分かる玄人好みの魚、という意味ではもちろんない。黒い体に黄色い斑点、さらにヒレの先も黄色に染まるオレンジフィン・カイザープレコは、そもそも誰の目から見たって派手である。


 琴音が言いたいのは、飼育の難易度についてだ。


「あー……」


 千尋が唸る。この反応は図星だ。


「たしかになー……けっこう神経質っつーか、原因がよくわかんないまま落ちることがあるって聞くなぁ」


「それをビギナーに薦めるのかおまえは」


 琴音はじろりと半目になって千尋を睨む。


 自分の飼っているギンガ――ブルームーンギャラクシーも、スネークヘッドの中では扱いにくい種類だというのが通説ではある。だが自分の場合、初めて飼った生体がブルームーンギャラクシーというわけではない。


 ギンガに出会うより前、飼っていた魚がいる。


 そのときの経験が糧になっているからこそ、自分は今のところ、ギンガを無病息災で過ごさせることができているのだと思う。


 ちらりと小清水に視線を向ける。


「あの~、巳堂さん、天河さん」


 小清水は首を傾げて、


「基本的なことかもだけど……『落ちる』って、なあに?」


 沈黙。


 琴音は千尋とふたりで顔を見合わせる。千尋は引きつったような苦笑いを浮かべている。自分の顔にはたぶん、何とも言えない微妙な表情が貼りついているのだろう。


「なぁコト、こうやって面と向かって言われるとあれだな。いかにあたしらの話が一般人に通じないかよくわかるな」


「ああ……業界用語みたいなもの、なのか……?」


 二人の横で、首を傾げたままの小清水が目を瞬かせている。




 結局、莉緒が「アクアリストの間では生体が死ぬことを『落ちる』と表現することあるんですよ」と教示してくれて事なきを得た。いつ頃から定着したのか、そもそもどうしてそう言われているのかは莉緒も知らず、琴音にも千尋にも心当たりはなかったが、とにかくそういうことになっているのだということで小清水には納得してもらった。


 ――改めて訊かれてみると、たしかに由来はわかんないな。


 琴音はぼんやりと考える。


 死ぬではなく、落ちる。


 言い換えたところで命が戻るわけでもないだろうに。変わるものがあるとしたら飼い主の心持ちくらいではないか。直接的なワードを持ち出さなければ死なせてしまった現実から目を背けられるかもしれない、という。


 ――ばかばかしい。


 千尋にも莉緒にも、他のアクアリストに対しても口を出そうとは思わない。他人には他人のスタンスがある。


 けれど――


 疑問を持たずに使ってきた言葉だけれど、これからはせめて、自分だけはそういうのはやめようとひそかに誓う。


「――巳堂さん?」


「ん……いや、何でもないよ」


 怪訝そうに窺ってくる小清水に答えて、琴音は気分を新たにする。


 莉緒が神妙な調子で切り出したのは、そんなときだ。


「すこし考えてみたのですが……」


「うん?」


「原因がわからないのでしたら、熟練者が飼ってもビギナーが飼っても、どのみち落としてしまうリスクは伴うということでは?」


 ぱちん、と千尋が指を鳴らした。


「そーゆー見方もあるねぇ」


「小清水さんが本当にそのプレコをお迎えしたいのであれば、わたくしはそうするべきかと思います。飼い方なら調べればいいわけですし、もし水質にデリケートということであればこまめなチェックでリスクは減らせますよ、きっと」


「まぁ、違いないね。小清水ちゃんにはコトもあたしもついてんだし。――つか、本命飼う前に別ので経験を、なんてのは部屋が元だしねー」


 千尋はけらけらと笑い、四つの水槽を指さしてみせる。


 なるほど、それは否定しがたい。


 惚れた魚は何としてでも飼いたくなるのがアクアリストのさがである。


 小清水の部屋はアパートの一室。確保できるスペースは知れており、水槽が増える原因はできるだけ取り除くべきなのだった。


「……どうする? 小清水さん」


 小清水がオレンジフィン・カイザーに惚れ込んだのであれば、望むとおりにさせるべきなのかもしれない。彼女に妥協してほしくないというのは、友達として琴音自身が願っていることでもあるのだから。


「えと。えっとね、」


 小清水が眉尻を下げ、困ったような面持ちを浮かべていた。


「まだアーマードとオレンジフィン・カイザーしか見てないから、他のも見せてくれたら嬉しいなって……」


 間。


「――そうだった」


「うん、ごもっともだねぇ」


「勇み足でしたわね」


 琴音は拍子抜けして肩を落とし、千尋が噴き出し、莉緒が口元に手を当ててクスクスと声を漏らす。

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