第117話 余計な世界を見せちまった

 亜久亜市に住むアクアリストでアクアマーケットのことを知らない者はいない。毎年十月に開催されていることは莉緒だって当然知っているし、そこには珍しい水草やチャレンジングな水槽用品が出てくる可能性があることも理解している。


 それでも、実際に足を運ぶかどうかは別だ。


 結局のところ欲しいものがあるならネットを使って取り寄せれば済む。メーカーの方針によって通販されないADO製品だけは実店舗に行って買う必要があるけれど、市内には複数のアクアショップがあるからやはり困った記憶はない。


 わざわざ人混みの只中に赴いて、あるかどうかさえハッキリしない一期一会を探して、自分に得することが果たしてあるのか。


 アクアリウムを始めてから五年、莉緒はずっとそんなふうに考えてきた。


 ゆえに、


「莉緒ちー、せっかくだし明日いっしょに回ろうぜ!」


 まるで「二人ともアクアマーケットに参加する予定でいるのは大前提として」と言わんばかりの千尋の提案に、初めはすっかり目を瞬かせてしまったものだ。


 もちろん嫌ではなかった。


 嫌でなかったのは間違いないが――


「ええと……小清水さんと巳堂さんは誘わなくていいんですか?」


「あーいいのいいの。どっちみちあいつらはあいつらで行くだろうから。当日コトの誕生日だしさ、二人きりにさせてやろう」


「まあ、巳堂さんってそうだったんですか? 教えてくださればプレゼント用意しましたのに……」


「あいつそういうところ疎くってなー……べつに悪気があって黙ってるんじゃないはずだから勘弁したって。それこそ明日テキトーに何か仕入れて渡しゃいいんじゃねーかな」


 それもそうか、と素直に得心がいった。


 同時に、誕生日プレゼントといえば思い出すことがあった。


「――そういえば、」


「ん?」


「千尋さん、あの水槽使ってくださってますか?」


「あー、あれね。八月に莉緒ちーがくれたオシャレなやつ」


 夏休みに入る少し前、千尋と世間話をしていた莉緒は、彼女の誕生日が八月であることを知った。そこで密かにプレゼントを贈る計画を立てて、喫茶店でのアルバイト代を充てて小型水槽を買ったのだ。


 クアドラ製のインテリア水槽、ハルプモントS。


 水量はおよそ四リットル。あまり派手なことのできない、なんならボトルアクアリウムと大して変わらないサイズではあるが、外掛けフィルターとLEDライトが一体になったオールインワン型だから意外と管理は楽にできる。


 水草や石や流木で水景を組みたがる莉緒は、このタイプの水槽とは基本的に縁がない。しかしながら生体メインの千尋ならば役立てられるだろうし、水槽自体のデザイン性が高い――おかげで中身のレイアウトがシンプルでも様になって見える――点からしても、千尋にあげるにはもってこいだろうという判断だった。


 ところが、千尋はバツが悪そうに後ろ頭を搔いて、


「スマン莉緒ちー、まだなんだわ」


「あら」


「あたしが飼ってきたのってまぁまぁデカくなる奴ばっかじゃん? あの水槽に入るくらい小っこいのを選ぶってなると、なかなかビビッと来るのがいなくてさー」


「言われてみれば、アーマードプレコもブラントノーズ・ガーもサイズ感のある魚種ですね。例外はタナゴくらいでしょうか?」


「タナゴも個人的なガサガサの成果だからなー。そりゃ今じゃ愛着も湧いてるけど、もとをただせば選んで飼いはじめたわけじゃないんだわ」


 ――なるほど。


 だったら渡りに船だ、と莉緒は微笑む。


「承知しましたわ。そういうことでしたら、アクアマーケットで生体を探してみましょう……わたくしと千尋さん、二人で」


 かくして、莉緒は人生初の即売会への参加を決めたのだった。



     ◇ ◇ ◇



 いろいろなブースを回った。


 中でも莉緒が特に興味深いと感じたのは、個人ブリーダーが販売しているオリジナルのブランド生体だ。アクアショップで見たこともないようなメタリックブルーのザリガニや、金色に光り輝くメダカ。驚いたのはブリーダーたちがそれらに証明書を付属させていることで、自らの作り出した品種に対して絶対の自信がなければこんなことはできまいと莉緒は思う。


「わたくし、アクアリウムにはそれなりに心得があったつもりだったのですが……やはりまだまだ知らない分野がありますね。千尋さんはやはりああいった生体ブリードの文化にお詳しいんですか?」


「いい面にも悪い面にもそこそこかねー……気が向いたら自分でチャレンジしてみんのも面白いかもしれんけど、まぁのめり込みすぎない程度にって感じ」


 莉緒の感動とは裏腹に、千尋からは微妙な答えが返ってきた。


 気が向いたら――ということは、今はやる気がないのだろうか。


 そういえば生体を探しているというわりに、ブランドメダカやブランドザリガニへの反応が薄かった気がする。


「千尋さん、ひょっとして何か警戒されてます?」


「まー、うん……話しといたほうがいいかあ……」


 千尋には珍しい歯切れの悪さ、


「真面目なブリーダーさんが多数派なのはわかってるけどさ。ああやって自前の証明書とか用意してくる連中は……あたしが言うのもアレかもしれんけど、正直あんまり誠実じゃねーと思うよ」


「えっ?」


「だって考えてもみなって、べつに品種を認定してくれる協会とかがあるわけじゃないんだぜ。いち個人が勝手に発行してる『証明書』に何の価値があるのさ? あんなもんせいぜい誰から買ったかがわかる程度で、あとは単純にカッコいいだけのカードでしかねーのよ」


「え、えええ……」


 絶句するしかない莉緒のほうをちらりと振り返って、千尋はひどく真剣そうに目を細めてみせる。


「莉緒ちーみたく育ちのいいアクアリストばかりじゃないってこと。――なんか誘ったの申し訳なくなってきたな……余計な世界を見せちまった」


「っ! いえ、そんなことはありませんわ!」


 反射だった。否定のセリフが莉緒の口をついて出た。


「知ることができてよかったと思います。知らないままだったら、いつか引っかかっていたかもしれませんし」


 アクアマーケットに積極的に足を運ぶことこそなかった莉緒だが、インターネットを介して取引をすることはある。


 今日見たようなメダカやザリガニを自分が探し求めることはないにしても、水草水槽に入れる生体にだって不特定多数のブリーダーが存在するわけで、そこに悪意のある人間が紛れていないとは言い切れないのだ。


「以前ガサガサに行ったときもそうでしたけど……千尋さんはわたくしの世界を広げてくれる方です。わたくし、いつも感謝しているんですよ」


「ぉ――」


 偽らざる気持ちであることが伝わったのか、あるいは単に気恥ずかしかったのか。千尋は一瞬呼吸を詰まらせて、


「……まー、その、なんだ」


 水を入れ換えるかのごとく、白い歯を見せて笑った。


「あれだ。とにかくそういうけったいな話もあるからだね、あたしは当面フツーに店で売ってるやつでいいと思ってるのさ。たとえばこういうシュリンプ……ビーシュリンプは凝りだしたら沼だけど、チェリーシュリンプならわりと気楽に――」


 べらべらと早口で捲し立てて後、千尋は目の前のブースに並んでいたビニール袋を取り上げようとした。


 水と空気で膨らんだそのビニール袋には、千尋が言葉にしたとおり、真っ赤に色づいたチェリーシュリンプが入っている。


 そして、



「おやまぁ……今日は常連さんのオンパレードですねぇ」



 ねっとりと粘つくような歓迎の声を耳にして、千尋と莉緒は、そのブースがディープジャングルの出張所であることに気づくのだった。

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