第113話 この人たちみんなアクアリストなの?

 バスが音をたてて遠ざかってゆく。


 亜久亜駅西口バスターミナルから二つ先、市内唯一のコンベンションセンター「ビッグシェル亜久亜」前の停留所。降車した琴音と由那を待ち受けていたのは、見渡す限りの人の海であった。


「ほわぁぁぁ……!」


 由那が感極まったような吐息を漏らす。


「この人たちみんなアクアリストなの?」


「まあ百パーセント全員ってわけじゃないだろうけど、アクアマーケット目当てで来る奴なんてアクアリストが大半に決まってるさ」


 単純に混雑ぶりを比べるならば、由那の地元で開かれた栗鼠追りすおい夏祭りのほうがずっと上だろう。


 しかし、今日ここに集っているのは自分たちも含めて大多数がアクアリスト。同好の士の多さが可視化された様子は、どうやら由那のテンションを上げるに足る代物だったらしい。


 琴音の視線が改めて会場をぐるりと見回す。


 名前のとおり巨大な貝殻のような外観をしているビッグシェルは、内部で会議場と展示場とに分かれている。アクアマーケットは展示場のほうで催されるから、用があるのは言うまでもなくそちらだ。


 展示場へと続く通路は現在、長蛇の列で埋まっている。


「……もうちょっと早く来て並んだほうがよかったんじゃない?」


「そうでもないさ。イベントは夕方までやってる。先行入場しなくったって回れなくなるってことはないよ」


 現在時刻は正午のやや手前。会場が閉まるまでにはだいたい五時間の猶予が存在する。焦らなくても充分に楽しめるはず、というのが過去数回参加してきた琴音の所感である。


 もちろん、ここでしか買えないようなレア生体を持ち帰りたいのであれば、割増料金を払って先行入場チケットを入手しておいたほうがいいのだが――幸いなことにと言うべきか、琴音にも由那にも水槽を増やすつもりは当面ない。


「ま、たとえば新型のインフルエンザか何かが流行って『感染対策が必要!』みたいな状況になったとしたら、そのときは時間入れ替え制が採用されて早く入ったほうが得になったりするかもしれないけど……今回はべつにそういうのないからな。――言ったそばから列動いたか」


 ほとんど亀の速さではあるが、人の海に波が生じた。警備員の吹く笛の音が聞こえるたび、まるで入口ゲートに吸い込まれるかのように人垣が移動してゆく。


 波は圧力を伴って琴音と由那のもとへと伝わった。二人は顔を見合わせ、どちらからともなく期待を秘めた笑顔を浮かべる。


「とりあえず私らも進むか」


「だね。中にいる時間が多いに越したことないもん……って、わわっ!?」


 そして、そのタイムラグが命取りになった。


 慌てた声を由那が発したと思った直後、小さな姿が琴音の前から消え失せる。


「ちょ……由那っ!?」


 琴音の目に映るのは、あまりにも厚い人垣だけ。


 ヤバい――琴音の脳ミソがアラートを鳴らす。


 由那を一人にするのはまずい。夏祭りのときとは立場が逆なのだ。亜久亜市に引っ越してきたのもアクアリウムを始めたのも今年に入ってからの由那が、アクアマーケットの巡り方など知っていようはずもない。


 ――それに……。


 わざわざ二人でやって来たのだ。二人で回れなかったら意味がないではないか。


「っ……失礼します、ちょっと通ります!」


 周囲の喧噪に負けないように声を張って、琴音は密集した人の隙間、由那が呑まれたあたりに狙いを定めて身を割り込ませた。


「由那、どこだ!?」


 すばやく首を巡らせる。それらしき影は、


「――トちゃ……っ!」


 途切れ途切れの声とともに視界の端をよぎる、明るいイエローカラーのリュックサック。


 見紛うはずもない。由那が背負っていたものだ。


 考えるよりも早く手を伸ばした。


 が、琴音の指がリュックに触れることはなく――由那と思しき背中はそのまま人混みに紛れて遠ざかってしまった。




 もっとも、琴音の切り替えは早かった。


〔ことね:今どこにいる? ――一分前〕

〔ことね:どのブースの前とか、何が見えるかとか教えてくれれば、迎えに行けると思うから ――現在〕


 これでよし。


 琴音はひとまず胸を撫で下ろすと、スマートフォンを上着のポケットへと収めた。


 打つべき手は打った。あとは由那からの返信を待てばいい。闇雲に探すよりは絶対に効率がいいはずで、今という便利な時代に生まれて本当によかったと思わずにはいられない。


「さて……突っ立ってても仕方ないし、ちょっと会場回っておくかな」


 参加経験を有する身とはいえ、しょせん自分が知っているのは去年や一昨年のイベントに過ぎない。


 今回のアクアマーケットでどんなショップやブリーダーが出店しているのか、どんな生体がブースに並んでいるのかは、今日このとき巡ってみないとわからないのだ。


 今のうちに少しでも会場を把握しておいて、気になる出品を見つけておくのも悪くない。由那と改めて合流したとき、スムーズに案内してあげられるように。


 ――とりあえず、壁際から攻めてみるか。


 人混みを縫って歩き出そうとした。


 そのときだった。


「――およ? ひょっとして巳堂サンじゃね?」


 聞き慣れない声に名前を呼ばれた。


 振り返る。


 十歩ほど離れたところから、どこかで見かけた覚えのある二人組が歩み寄ってきていた。


「委員長や由那っちから噂は聞いてるよん。やっぱりっつーか何つーか、会うべきところで会ったなぁ」


「アクアリストだものね。私ですらチケット取るくらいなんだから、あなたは当然いるわよね」


 記憶が正しければ夏休み中、由那が送ってきた写真に写っていた彼女たちを見たのが最初だ。二度目は瑞泉祭のアクアリウムカフェで、自分が接客したわけではないけれど、妖怪の仮装をした二人は特に目立っていたから来ていたことそのものは容易に思い出せる。


 日に焼けた肌がスポーティな印象を与える少女――蟹沢理沙。


 メガネの似合う理知的な風貌の少女――海老名詩乃。


 由那や莉緒のクラスメイトとして話には聞いていたB組コンビが、奇遇にも琴音の前に姿を現していた。

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