第112話 コトちゃんの誕生日っ!?
由那にそれが見つかったのは、彼女がギンガへの餌やりを無事に終えて、琴音のほうへと振り向こうとしたときのことだった。
水槽の隣には小学生の頃から使っている勉強机がある。机の棚には教科書や参考書が収まっていて、琴音がふだんからまじめに勉強していることを窺わせる。
その机の、ゆうべ問題を解いたノートを広げたままのスペースの隅っこ。
卓上カレンダーが載っている。
暦はもちろん十月を示していて、二十四日が赤ペンで丸く囲まれている。
「コトちゃん、この印なに?」
「あぁ、それか」
琴音にしてみれば何ということもない話である。一年に必ず一度は来る日がやって来た、というだけに過ぎない。
「一つには私の誕生日なんだけど……」
「――コトちゃんの誕生日っ!?」
一方で由那のほうはと言えば、腹を空かせたギンガでもここまではなるまいと思わされるほどの食いつきを見せた。
「どうしてもっと早く教えてくれなかったの!」
「え。教えるもんなのか普通」
「近くなったら教えるものだよ! 友達でしょ!?」
「そ、そっか……すまん」
そう言われては謝るしかない。なにしろこちとら今まで友達付き合いなどろくに考えてもこなかった身だ、隠すようなことではないにしろ、わざわざ誕生日の話をするという発想にすら辿り着かなかった。
「天河さんもコトちゃんの誕生日知らないの?」
「いや、さすがにあいつは知ってる。親どうしが仲いいからさ、私らが直接喋らなくてもいつの間にか自然と伝わっちゃうんだよな」
「じゃあ、お互いにお祝いしたりするよね?」
「するったって、誕プレでちょっとしたものを贈り合う程度だぞ? 今年は
なお、千尋の誕生日は八月である。
ということは、琴音が夏休みのあいだアルバイトに力を入れていた理由のうちには、千尋への誕プレ資金に充てるためという事情も――せいぜい二五〇〇円ぶんではあるが――含まれていたことになる。
もちろん基本的には、バイトを頑張っていたのは自分用のクーラーと冷凍庫のためだったのであって、千尋への誕プレはあくまでもついでだ――少なくとも琴音の言い分としてはそうだ。
しかし、由那の勢いは収まらなかった。
「そういうのでいいんだよぅ!」
柔らかそうな頬がぷうっと膨らむ。
「コトちゃんはもっと自分のことアピールしていいと思うなぁ」
「あ、ああ……悪かった。何て言うかこう、自分から言い出すのもウザそうな気がしてさ」
「も~、そんなこと思うわけないでしょ?」
いつもならくりくりと丸い由那の目が、今はじいっと細められている。ぶっちゃけ細められたところで迫力を感じさせるわけでもないのだが、ともあれ由那が本気であることだけは理解できた。
琴音はもう一度だけ「悪かった」と頭を下げると、こほんと咳払いしてから改めて告げた。
「ええと……と、とにかくそういうわけで、私の誕生日は十月二十四日だ」
「んっ。ちゃんと覚えておくからね」
「ちなみに由那のは? さっきの話からすると近くはないってことだよな?」
由那は「近くなったら教えるものだ」と口にしていた。その彼女がまだ伝えてこないということは、彼女の誕生日は当面先なのかもしれない。
果たして琴音の予想したとおり、由那はこくりと頷いた。
「わたしのはまだだよ。来年になっちゃうから」
「ふうん……」
要するに早生まれか、と琴音は納得する。イメージどおりではあるが、それはきっと言わぬが華だろう。
「じゃあ、同じ学年でも由那から見れば前の年に生まれたヤツが多いんだな。今はたいしたことじゃないだろうけど、小学生の頃とかちょっと大変じゃなかったか?」
「えっ? ――あ、ううん、違くてね」
ところが、由那は一転して首を横に振った。
「わたしの誕生日、四月十二日なの。コトちゃんと知り合ったときにはもう今年の誕生日は過ぎちゃってたんだよね。だから次のは来年になっちゃうの」
「……マジか」
琴音はあんぐりと口を開けるよりなかった。
――つまり、由那って私より半年ぐらいお姉さんなんじゃん。
衝撃の真実である。
「――ねえねえ、ところでコトちゃん」
スマートフォンのカレンダーアプリに琴音の誕生日を書き入れた由那が、ふと気づいたといったふうに顔を上げた。
「さっきコトちゃん『一つには私の誕生日』って言ってたよね。他にも十月二十四日に何かあるってこと?」
「ああ、しっかり聞いてたか」
由那の物覚えのよさや感覚の鋭さにはこれまでも再三感心させられてきたから、今更特別な驚きはない。少なくとも、半年とはいえ彼女のほうが年長――という表現もおかしいが――だった事実と比べれば些細だ。
質問の答えは、イエス。
十月二十四日――今年は土曜日である。そしてここ亜久亜市において、十月の第四土曜日とはアクアリストにとっての祭典の日なのだ。
「由那は今年引っ越してきたばかりだし、アクアリウムも最近始めたばかりだから知らなくても無理ないけど。――毎年十月の第四土曜日は、アクアマーケットの開催日なんだよ」
「アクア……マーケット……?」
さっきまでの気勢はどこへやら、由那は小首を傾げて怪訝そうにオウム返しを決めてくる。
――うん、いつもの感じになってきたな。
琴音はわずかに口角を上げる。こっちも調子が戻ってきた。たとえ由那のほうが半年くらい人生の先輩だとしても、ことアクアリウムに関する限り、教える立場にいるのはまだ自分だ。
「アクアリウムの即売会だ。個人のブリーダーさんがお店出してマニアックな生体を売ってたり、ショップのブースに新作の器具が並んでたり、いろいろ面白いものが見られる」
「へええ……大きいイベントなんだね?」
「このあたりじゃ亜久亜でしかこういうのやらないし、体験しといて損はないぞ。由那さえよければ――」
十月二十四日。
誕生日とイベントの日が重なったのは、もしかすると自分の思っていた以上に幸運なことだったのかもしれない。
「私と、いっしょに行かないか?」
「行く!」
即答であった。
今年はいい誕生日を過ごせそうだ、と琴音は思う。
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