第111話 自分で飼ってるわけでもないのに

 ひととおり月刊アクアキューブのスネークヘッド特集を楽しんだところで、由那がふと気づいたといったふうに顔を上げた。


「――そういえばさっきの記事、ギンガちゃんが別の名前で紹介されてたよね」


「ギンガがって言うと語弊はあるけど、まあそうだな。今回はブルームーンギャラクシーじゃなく、チャンナ・パルダリスの名前で載ってた」


「チャンナ……のほうが学名?」


「ああ。学名自体は前に特集組まれた時点でもついてたはずだけど、カタログページの日本語表記までチャンナ・パルダリスになってるのは今回からだな」


 由那の問いに応答しながら、琴音は90cm水槽で泳ぐギンガ――ブルームーンギャラクシースネークヘッドへと視線を投げた。


 清涼感あふれる青い鱗を輝かせるこのスネークヘッドは、実のところ名前を複数持っている。最も多いのは「ブルームーンギャラクシー」の名で市場に出回るパターンだが、ここ数年は産地からもじって「メガラヤレオパード」と呼ばれるケースも増えてきていた。そこに学名の「チャンナ・パルダリス」が加わった形だ。


 すでにギンガを飼育している琴音は、わざわざネットショップでスネークヘッドの在庫を確かめたりはしない。それゆえ最近の流通名事情は実のところあまり把握していないのだが、こうして雑誌の特集で学名が使われるようになったあたり、学名での流通も浸透してきているのかもしれない。


「同じお魚さんでもいろんな呼び方があるのって、なんだかちょっと混乱しちゃいそう」


「正直、スネークヘッドは特にややこしい印象がある……由那が言ったのとは逆に、ほんとは違う種類の魚がいっしょくたにまとめられてるパターンすらあるからな」


「え?」


「ブルームーンギャラクシーなんかまさにそうだぞ。一番最初に輸入されたのはメガラヤレオパードだったと思うんだが、その後よく似た別の魚がブルームーンギャラクシーとして入ってきて。ちょっと前までは『旧タイプ』と『新タイプ』なんて分け方されてたよ」


「あうあう……コトちゃん、よくこんがらがらないね……?」


「私も内心イラッとすることはある。でもほら、今になって新種が見つかったり種小名が登録されたりっていうのは早い話、研究段階でも正確にわかってなかったってことだからさ。新しい発見のワクワクと表裏一体って考えることにしてるよ」


 ちなみに「新タイプ」と呼ばれていたのはチャンナ・ビプリという種のようで、これは琴音も今回の特集を読んで初めて知った。パルダリスのほうが青みが強く黒斑も大きいという特徴はあれど、全体的な色合いや雰囲気はたしかに酷似しているから、かつてのアクアリウム関係者が同種と括ってしまったのも無理はないだろう。


「話の流れからすると、ギンガちゃんはパルダリスなんだよね?」


「見る限りそうだな。斑点ハッキリ出てるし」


 バイト代で購入したクーラーによって二十二度まで冷却された飼育水の中で、ギンガは宝石のような体をくねらせて悠々とターンを決めている。


 そのとき、由那が立ち上がった。


「ね、ね、コトちゃん」


「うん?」


「わたしがギンガちゃんに餌あげてもいい?」


「別に構わないけど……大丈夫か?」


 以前部屋を訪れたときにはジャンプに驚いてひっくり返っていた由那である。変に苦手意識など持っていなければいいのだが。


 由那は「大丈夫!」と意気込んだかと思うと、水槽の前まで歩み寄った。台となっているキャビネットの扉を開け、餌の缶を取り出す。


 乾燥川エビ。八〇グラム入りでおよそ千五百円。


 ――へえ。


 琴音はひそかに感心を覚えた。


「由那、今日は人工餌じゃなくてそっちでチャレンジするのか?」


「あ、うん。さっき読んだところにね、人工餌は栄養価が高すぎるから淡水エビをメインにしたほうがいい……みたいなことが書いてあったの。だからこっちをあげようかなって」


「スネークヘッド自分で飼ってるわけでもないのに、よくそんな細かいとこまで目を通してたな」


「そりゃあ読むよぅ。コトちゃんといっしょのお部屋に住むんだったら、わたしだってギンガちゃんのこと知ってなくちゃいけないってことだもん」


「そ、そうか……」


 当たり前のように答えられてしまった。こういうことをさらりと口に出せるから敵わないんだよな、と琴音はつくづく思う。


「……私も淡水フグの勉強しておくかな。そのときになったら由那にもいろいろ教わるから、よろしく」


「おぉ……いつもと立場が反対になるね。コトちゃんに教えられるくらいにならなきゃいけないのか、できるかなぁわたし」


「実際飼ってるんだから私に見えてないものが見えてるはずだ。楽しみだな」


「あはは……」


 プレッシャーだよぉ、と苦笑しつつ、由那は水槽へと向き直った。


 途端、ギンガの泳ぎが激しくなる。餌くれダンスだ。


「わわっ。焦らないでね、今あげるからね」


 水槽上部の角にはウールがぎちぎちに詰め込まれている。由那はその白い塊を引き抜いて脇に置くと、缶の中からエビの干物をつまみ上げ、ガラス蓋の切り欠き部分へと持っていった。


 ギンガは迅速に反応した。


 蛇のような顔が水面めがけて持ち上がり、赤く澄んだ瞳がさらにその先、由那のちらつかせる白い指へと狙いを定める。細長い魚体の筋肉に緊張が満ちて、尾びれが小刻みに動き、


「えいっ!」


 ヤバいジャンプする――琴音が肝を冷やした瞬間、由那はもう一方の手を水槽の前面にかざした。


 ギンガの注意が逸れる。


 再び蛇頭が上を向く頃には、由那はもう乾燥エビを手放していた。ギンガは水面を漂う餌を目敏く見つけ、ゆっくりとした仕草で口に含む。


 も゛っも゛っも゛っ。


 ガラス越しに聞こえてくる咀嚼音を耳にしながら、半ば呆然として琴音は尋ねた。


「え、待て待て。今の技どこで覚えた?」


「考えたの!」


 由那は誇らしげに胸を反らして、


「ギンガちゃんの目がいいのは知ってたから、水槽の前で手を動かしたら反応してくれるかなあって。跳ぶサインがわたしにわかるか不安だったけど、うまくいってくれてよかった~」


 これでもうギンガちゃんに驚かされなくて済むよ、と由那は頬を緩ませる。


 ――呑み込みがいいと感じちゃいたけど……。


 琴音は言葉もない。スネークヘッドがジャンプのために予備動作をとることは、自分ですら手元で数年観察してみて初めて気づけたことだというのに。


「おそろしいビギナーだよ、まったく……」


 うめぼしの白点病の治療が成功したとき、由那は「今度はわたしがみんなを助けてあげられるようになりたい」と言っていた。


 もしかすると自分や千尋や莉緒が想像する以上に、その日は早くやって来るのかもしれなかった。

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