第110話 常識が塗り変わったんだよ!

 辰守駅の周辺には書店がない。それでも琴音が月刊アクアキューブを入手できたのは、件の雑誌がアクアリウムの専門誌であるからだ。


「そっか~。言われてみれば、アクアショップって本とか雑誌とか置いてるところ多いよね」


「ああ。だから私がアクアキューブ買うときはだいたい『AQUAアクア RHYTHMリズム』だ」


 琴音は自室に帰ってくるなり袋を開けて雑誌を取り出すと、表面にかかっていたビニールの封を破ってゴミ箱に捨てた。


 そう――琴音の自室である。


 巳堂家の二階にある、琴音の自室である。


 どうして由那がこの場にいるのかと言えば、彼女自身が遊びに来たいと主張したからだ。いっしょにアクアキューブの最新号を読むついでに、ギンガ――琴音の飼っているブルームーンギャラクシースネークヘッドの名前だ――の様子も久しぶりに見てみたいとのことだった。


 当然快諾した。


 以前ほどの気恥ずかしさは感じない。単純に二度目ということもあるのだろうが、たぶんもっと大きいのは、自分と由那との距離に変化があったことだろう。


 それでもやはり、千尋を部屋に入れるときに比べれば鼓動が早くなってしまうのだけれど。


「ね、ね。今度のはどういう特集なの? 前はいろんなスネークヘッドのカタログだったよね?」


「カタログは今回もあるだろうけど、それとは別にビッグニュースが載ってるらしいよ。SNSで公式アカウントが宣伝してた」


 由那が飼っている生体は淡水フグだから、スネークヘッドの特集を読んだところでさしあたり益はないはずである。にもかかわらず表情と声にワクワクを滲ませて質問してくるものだから、スネークヘッド愛好家の琴音としてはついつい嬉しくなってしまう。


 ――たとえば、


 ――たとえばアクアキューブの特集がプレコやアピストグラマだったら、由那はここまで食いつくだろうか。


 もしも同じくらい興味を示すとしたら、それはそれで生物部の仲間として喜ぶべきことには違いない。


 けれど、おそらくそうはなるまい――そんな気がしてしまうのは、まんざら自分の思い上がりではないと思うのだ。


「ビッグニュースかぁ。どんなのだろうね?」


「ま、いろいろ言うより読んでみるのが早いさ」


 ベッドに二人並んで腰かける。


 肩が触れ合いそうな距離。十月も半ばを過ぎて気温は下がりはじめているが、あるかなしかの空隙を通して伝わってくる由那の体温のおかげか、いつもよりもむしろぽかぽかする。


 温もりを心地よく感じながら、琴音は胸を高鳴らせる期待に身を任せ、雑誌のページを捲った。



「――は?」



 頭が真っ白になるほどの衝撃が来た。


「見間違い……じゃないよな?」


 琴音は一旦雑誌を閉じ、改めて表紙を確認する。


 もちろん紛れもなく、発売されたばかりの今月号である。爽やかなブルーグレーの体色で知られる人気種が大写しになっているし、傍らには大きな文字で「スネークヘッドの新地平」と記されている。


「どうしたの、コトちゃん?」


「いや……買う雑誌間違えたかと一瞬思った」


 琴音は再び特集ページへと指を這わせた。


 そこに掲載されている魚の姿は、表紙のチャンナ・オルナティピンニスとはまるで様相を異にしている。スネークヘッドであることを思わず疑ってしまうほどに。


「アエニグマチャンナ属、だって……!?」


 褐色の鱗。小ぶりな眼と、対照的に大きく裂けた口。既知の仲間と比べてどことなく奇形的な印象を受ける風貌――。


 写真の中でゆるやかに体をくねらせる、謎に包まれたスネークヘッド。


 映画『ロード・オブ・ザ・リング』の登場キャラクターにちなんで「ゴラム」と命名されたそいつは、驚くべきことに、なんとらしい。


「地底? お魚さんなのに?」


「ああ……この場合は地下水棲って意味だな」


 見出しを一瞥した由那は、どうやら魚が土に潜っている光景を想像したようだ。そういう魚が存在しないわけではない――肺魚の仲間には粘液と泥で繭を作って地中で夏眠するヤツがいる――から琴音も笑ったりはしないけれど、ここで紹介されているスネークヘッドはそれともまた事情が違う。


 ゴラムスネークヘッド。


 この褐色の怪魚は、インドの民家の井戸から発見された。つまり、地下水脈に棲んでいた魚が初めて人間の前に姿を現したわけだ。


「今まではさ、スネークヘッドって大きく分けて二種類だったんだ。アジア系のチャンナ属とアフリカ系のパラチャンナ属……だけど、ゴラムはどっちにも当てはまらない新属なんだ。スネークヘッドの常識が塗り変わったんだよ!」


 興奮を抑えきれない。


 さっきまで由那が覗かせていたワクワクをゆうに上回るであろう昂揚が、琴音の声のトーンを激しく揺さぶる。語調の端々に力がこもって、その熱は由那へとたやすく伝播した。


「すごいこと……だよね? 宇宙とか深海でもないのに、今の時代になってもこういうことあるんだねぇ」


「ああ。スネークヘッドはもともと二十一世紀に入ってからも新種がどんどん見つかってきた魚だから、ビッグニュースって言っても正直また何かが新しく学術記載されたのかなくらいに考えてたけど……さすがに新属は想像してなかった。誇張でもなんでもない、正真正銘のビッグニュースだ……!」


 これまで「sp」止まりだった種が正式に学術記載された、みたいな話とはワケが違う。


 既存のスネークヘッドとはまったく異なる系統が見つかったのだ。


 しかも――その系統は、単種ではない。


「ええっと……『アエニグマチャンナ属はゴラムだけではない』……?」


「ゴラムが見つかって間もないうちに『マハーバリ』が発見されて、いきなり二種になったって書いてあるな。……ちょっと、どう言い表していいかわからない」


 長らく一科二属であったスネークヘッドに彗星のごとく加わった新グループ、アエニグマチャンナ。それを形成する新顔たち、ゴラムとマハーバリ。


 まだまだサンプル数も足りない研究段階とあって、アクアリウム市場に出回ることは当面あるまい。仮にそのような事態になれば、現在スネークヘッドの最高峰とされるチャンナ・バルカをも遥かに凌ぐ値札がつくはずだ――特集記事はそんなふうに結ばれていた。


 由那がほうっと息をつく。


「生き物の世界って、まだまだわたしたちの……っていうか、人間の知らないことがいっぱいあるのかもしれないね」


「だな」


 一も二もなく琴音は頷く。実物を前にしたわけでもない、ただ誌面から情報を得ただけでこうまで満足するのは久しぶりだ。


「――つくづく面白いと思うよ、熱帯魚って」



     ◇ ◇ ◇



 参考文献:『月刊アクアライフ』2020年6月号

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