第98話 このホース、今まで由那が……。

 外部フィルターのメンテナンスは手間がかかる、と一般的に言われている。琴音としてもその一般論に抗う気は特になく、たとえば由那が使っているような上部フィルターなどと比べれば明らかに手入れの大変な品だと認識している。


 水流が止まったのを確認してから最初にやるのは、とにもかくにも接続部分のコックを全て閉じることだ。


 イーハウス製の外部フィルターはデフォルトでダブルタップが付属してくる優秀な製品だが、コックを止水側に回さなければホースやフィルターから水があふれてくることに変わりはない。実に当たり前の話である。しかし、実際に痛い目を見るまでこの当たり前の話を実感できないアクアリストも決して少なくないはずだと琴音は信じて疑わない。


「ダブルタップ、ちゃんと全部閉めたか?」


「う、うん……なんかコトちゃん声が怖いよ?」


来賓室ここの絨毯高そうだからな。一応新聞紙は敷いたけど、このサイズの外部フィルターだと出てくる水の量も多いだろ。やらかしたら絶対吸いきれない」


「いつになく言葉に力があるなあ……」


 琴音はすっと目を逸らす。脳裏によぎっているのは以前家で盛大に水漏れさせてこっぴどく叱られた記憶である。もちろん語るつもりはないし、あのとき居合わせた千尋にも後で口止めをしておかねばなるまい。


 由那の隣にしゃがんでキャビネットの中を覗き込むと、たしかにすべてのコックがホースに対して垂直方向を向いていた。止水状態になっている証拠だ。


「こほん――それじゃ、次はいよいよ分解していくぞ。ダブルタップのジョイントを外そう」


「え? 吸水と排水のパイプだけ取り換えればいいんじゃないの?」


「まあな。ただ、せっかくだから今のうちにメンテナンス教えておけって部長ちひろからのお達しでさ。いい機会なのは間違いないし、濾材の洗い方も教えるよ」


「そっか……うん、覚えたらわたしも戦力になれるもんね!」


 由那が胸の前でぎゅっと握りこぶしを作る。


 やる気があるのはいいことだ――琴音はかすかに口角を上げて、ふと今の状況に既視感があることに気づく。


 ――なんか、初めて話した日を思い出すな。


 上部と外部という違いこそあれど、そういえば出会った初日に教えたのも濾過装置にまつわる知識だった。あのときはまさか、こんなふうにいつも放課後を共に過ごす関係になるなんて想像だにしなかった。


「ねえ、コトちゃん」


「ん?」


 由那の呼びかけで現実に戻った。


「水が流れてたところを止めたわけだから、ダブルタップの中には今も水が溜まってるんだよね?」


「そりゃそうだ。まあコック止水のほうに倒してるから、外したときに出てくる水は二つのコックの間に溜まってるほんのちょっぴりだけだけど……それでも飼育水だからな、床に吸わせるよりバケツにあけたほうがいい」


「やっぱり。じゃあバケツの上で外すね」


 琴音は頷いて、


「バケツにはどのみち濾材洗う用に飼育水入れなきゃいけないから、その足しにしちゃってくれ。――ちなみに洗うのに飼育水使うのはなんでだと思う?」


「水道水で洗うと濾材に棲んでるバクテリアさんたちが死んじゃうから!」


「よくできました」


 打てば響くように正答した由那が得意げな顔を浮かべる。


 由那の覚えの良さはすでに琴音も知っているから、いまさら驚いたりはしない。最初の頃はこちらの言うことを逐一メモしていた由那である。あの行為がかなりの効果を生んでいたのだろう。


 驚きはしないが、話したことをしっかり覚えていてくれるのはどうあっても嬉しいものだ。師匠冥利に尽きる。


「――でも、これっぽっちの水じゃ濾材洗えなくない?」


「たしかにな。だから、ダブルタップの口をバケツに突っ込んだままコック戻してやるといい。そしたらフィルターから水が出てくるだろ」


「おお~……ほんとだ。よくできてるなあ」


 指示を忠実に実行した由那の手元で、ホースが水を吐き出してゆく。たちまちバケツ内の水位が高くなって、由那は急いで再びコックを閉じた。


「あとはフィルター本体から濾材コンテナを引っ張り出して、中身をバケツにあけて汚れを落とすだけ……なんだが、今回は本当にやらなくていいぞ」


 由那が開けたフィルターの蓋。その奥を覗き込んだ琴音は、予想していたことではあったが「やはり掃除はいらない」と判断した。


 濾材コンテナの一番上にはウールマットが載っている。そのウールマットがほとんど汚れていなかったのだ。


 そもそも水槽を立ち上げてからそんなに期間が経過していないし、何よりも生体がまだいない。発生しうる汚れといえば砂やソイルによる土汚れがせいぜいで、ウールがこの様子では下の濾材が目詰まりなど起こそうはずもない。


「ん、ん……おっけー。やりかたはわかったから、わたしも大丈夫だと思う。それじゃあフィルターを元に戻していけばいいんだよね?」


「ああ。セットする前に吸水のパイプだけガラスのやつに交換しとくぞ」


 琴音は水槽に引っ掛けてあったU字型の吸水パイプを掴むと、バケツの上に持っていってホースから引っこ抜いた。管の内側に溜まっていた水がこぼれ、バケツの水面に跳ね返って新聞紙の上に水滴が散る。


「……ホース、見えるとこだけ透明なやつに替えておけばいいよな」


 由那が手を動かしている間、琴音もただ指示だけ飛ばしていたわけではない。こっちはこっちで透明なホースをちょうどいい長さに切っていたのだ。せっかくガラス製のパイプを使っても、ホースが緑色丸出しでは台無しになってしまうから。


 透明なホースの先端にガラスパイプを取りつける。然る後にホースを替える。フィルターへと繋がる吸水側のホース、クーラーから繋がる排水側のホースをそれぞれ透明なものに交換すれば、残るはセットして呼び水をして、最後に排水用のガラスパイプを取りつけて完成だ。


「よし、ホース交換完了――由那、呼び水やってみな」


「呼び水?」


「フィルターの蓋開けたりホース交換したりしたから、いま管の中にあるのは水じゃなくて空気だろ? その空気を吸い出さないと水の循環が始まらないんだ」


「ああ、呼び水っていうんだねあれ」


 ちなみに由那の言う「あれ」とは、この120cm水槽を立ち上げたときに千尋が遂行した作業のことを指している。


 ホースの先端を口に含んで、中の空気を吸い出してやるのだ。


 空気を吸い出したぶん、水槽内に浸かっている吸水パイプから水がホースへと流れ込む。ホースとフィルターの内部が飼育水で満たされれば万事OK、濾過システムが回りはじめるという寸法である。


 思い返してみれば、あのとき「呼び水」というワードはたしかに誰も出さなかった気がする。スターターがありゃなあ、と千尋がしきりにぼやいていたことだけは記憶に強く残っているが。


「じゃあ、やるよ~!」


 初めて体験する作業に昂揚しているらしい。由那は声を弾ませたかと思うと、ぱくりと勢いよくホースを咥えた。




 運動ができるからといって息の続く時間が長いとは限らない。そのことを、琴音は目の前の光景からまざまざと教えられるはめになった。


「コトちゃ~ん……代わってぇ……」


「えぇ……さっきまでのテンションはどうした……?」


 結果を言えば、由那は五分でへばった。


 ほとんど息を吸いっぱなしでの五分。慣れない作業であることを考えればよく頑張ったほうなのかもしれないが、外部フィルターに慣れていないという意味では千尋もそう違わないはずである。由那がへっぽこなのか千尋が体力オバケなのかは判断に困るところだ。


 どうあれ、琴音がやるしかなかった。


 やり方自体は由那もわかったろうから、最後の詰めくらいは自分が済ませてしまってもいいだろう――何となしにそう考えてホースを受け取り、口元に運びかけてぎくりとした。


「コトちゃん、どうしたの固まって?」


「え、あ……ああ、いや何でもない」


 嘘である。


 何でもないなら琴音とて手を止めたりなどしない。一瞬とはいえ硬直してしまったことには当然それなりの理由が存在する。


 目の前で無邪気に小首を傾げている由那。そのぷっくりとした桜色の唇に、琴音の視線は吸い寄せられる。


 ――このホース、今まで由那が……。


 ――こ……これ、いわゆる……。


 間接キス。その言葉を琴音はすんでのところで押し止める。


 とはいえ一度意識したらもう事実から目を逸らすことは不可能で、熱くなる頬の感覚に炙られた思考が八つ当たり先を求めて弾けた。


「くっ……図ったな、千尋……!」


 暴発によって出力された結論が奇しくも真実を言い当てていたことになど、もちろんこのときの琴音が気づくはずもなく。


 肚を括って咥えたホースを、できるだけ舌に触れさせないようにするのが精一杯だった。



 数分後、琴音は口を離すタイミングを見事に誤って、ホースを上ってきた飼育水を思いっきり飲み込んで激しくむせた。

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