第68話 数を減らすのではなくて増やす行為
佐瀬先生の言う「いいもん」は、理科準備室に設えた二段重ねの水槽ラックの、下のほうに置いた60cmレギュラー水槽の中で起こっていた。
つまり、甲殻類を入れた水槽である。
「あんたたちがセパレーター使わないって言うから心配でね、授業の合間とかにちょいちょい見てたんだけど。案外いけるもんね」
「まーハコが60cmありますし隠れ家も入れてますし、よっぽど過密にしたり餌切らしたりしなきゃ大丈夫っすよ。そもそもコレが目的なんだからセパレーター使ったら元も子もないじゃないっすか」
佐瀬先生と千尋が傍らでそんなふうに囁きあうのを、琴音はどうにも落ち着かない気分で聞き流す。
佐瀬先生が懸念していたのは共食いだ。眼前で繰り広げられている光景は琴音ですらパッと見それと勘違いしそうになってしまったし、現に小清水などは横であわあわと慌てたそぶりを見せている。
「あのう、小清水さん。大丈夫だと思います」
莉緒がちょっと遠慮がちに口を開いて、
「これは共食いではなくて、むしろその逆と言いますか……」
「逆?」
「つまり、数を減らすのではなくて増やす行為と言いますか」
「……あっ」
小清水がぽんと両掌を合わせて、莉緒から水槽へと目を戻す。
「そっか。これがザリガニさんたちの交尾なんだ……」
一同の見つめる先では、まさに二匹のザリガニが交接を行っている真っ只中なのだった。
上になっているのは黒々として見えるほどに濃く発色したオスである。仰向けに寝転がったメスの体にのしかかり、大きな鋏で相手の腕を押さえつけるようにして砂のマットに組み敷いている。
小清水の視線が、ついっと水槽から逸れた。
「あはは……なんだか、えっちな感じだね……?」
無脊椎動物の交尾で何を、と琴音の中の冷静な部分が囁く。
しかし実際のところ、小清水の感想もまんざら理解できないではない、というのが偽らざる本音だ。
互いに肢を絡ませながら、人間で言えば腰にあたるのであろう部位を動かしている二匹のザリガニ。彼らの体勢は動物の交尾よりもむしろ人間がアレするときのソレに近く、眺めているとよからぬ想像力が頭をもたげそうになる。
――っていうか、この格好は……。
瞬間、琴音の脳裏に強烈なフラッシュバックが閃いた。
いつぞやの放課後。久しぶりに自分と千尋以外の人間が踏み入った自室。床に倒れ込んだ自分と、その上に体ごと乗っかった小清水。間近からこちらを覗き込む潤んだ瞳、うっすら赤く染まった柔らかそうな頬っぺた。自分の心臓が自分の意思を離れてばくばくと高鳴る感覚。
――バカか! 何考えてるんだ私……!
――あれは単なる事故だったし、だいたい女子同士だろ。
――いや待て待て、女子同士ってなんだ?
――男とか女とかじゃなくて、まず私たちそういうのじゃないし!
ぐるぐると巡る不埒な思考が出口を求めて、しかし理性に押しとどめられて言葉にならず、
「……っ!」
琴音はぎゅるりと首を回して明後日の方向へと顔を逸らした。水槽の前から一歩下がって、横並びの列からひとり外れる。
「巳堂さん、どうしたの?」
隣にいた小清水が動きに気づかないはずもなく、すぐさま問いが飛んでくる。
もしかすると小清水も話を変える口実を探しているのかもしれない――そんな可能性がちらりと意識の片隅に浮上したものの、だからといってどうもこうもありはしない。素直に答えたところでこの話は切り替わらないし、そもそも素直に答えるなんて絶対無理に決まっている。
「いや……ちょっと、立ちくらみしただけ……」
まあ、と反応したのは莉緒だ。
「体調がすぐれないんですか? 保健室に行ったほうがよろしいのでは……」
「うっ……いや大丈夫、平気平気。今日はいつもより遅く起きちゃってさ、朝抜いてダッシュで学校来たんだ。そのまま体育の授業に出たせい……かな、たぶん」
「ああ、お弁当まだ途中でしたわね、そういえば」
「わたしもお腹空いてるんだったよ。先に食べちゃってからお話しよ?」
とっさに作った言い訳にしてはよくできていたと自負したい。莉緒と小清水はそれで納得したらしく、声のトーンからも安心した様子が伝わってきた。
琴音は率先して理科準備室をあとにする。
四人の顔がまともに見られない――というのは半分ウソで、より正しくは「今の自分の顔を四人に向けるわけにはいかない」だよなと琴音は思う。
そう、見られるわけにはいかないのだ。特に小清水にだけは。
――ともあれ。
かくしてザリガニのペアリングは完了し、あとは産卵を待つばかりとなった。
一度の交尾で抱卵に至るとは限らないが、とにもかくにも交尾はしたのだからペアの相性が悪いわけではあるまい。しばらく待っていればメスが卵を産んでくれるだろうし、そこから数ヶ月のうちには稚ザリが生まれてくるだろう、というのが千尋と佐瀬先生との共通見解である。
うめぼしの食糧問題は解決したのだ。
そして週末、亜久亜高校に夏休みがやってきた。
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