第3話 お手軽でもいいものはいい

「――いちおう確認しておくけど」


 水槽を台の上に設置するという重労働を終えて、一旦休憩を入れる運びとなった。


 壁から生えているかのような部屋備えつけのテーブルにつき、先程コンビニで買ったプリンのフタを開けながら、琴音は念のための質問を投げた。


「水草でジャングル作って小魚の群れを泳がせるのと、がっつり存在感ある魚を飼うの、どっちがいい?」


 小清水がコーヒーカップを並べながら、


「ペット感ある子をドーンとお迎えするほうが寂しくないんじゃないかなぁ。でも、どうしてそんなこと訊くの?」


「それによってこれからやることが変わってくるからだよ」


 琴音はプリンを一口味わってから、


「砂利とかソイルとか持ってないでしょ?」


「あ……そっか。さっきのお店で買えばよかった」


「水草育てるんじゃなきゃ問題ないよ。水草だと底床はまぁソイルでしょ。砂利なら後からでも敷けるけど、ソイルを後入れするのはちょっとね……」


 差し出されたコーヒーにミルクと砂糖を入れる。かき混ぜる手を止めないまま、琴音は過去の経験を思い返していた。


 魚の体色が飛ぶのを防ごうと、水を張っただけの状態から化粧砂を追加したことがあったのだ。


 粒子が舞ってめちゃくちゃ水が濁った。


 全力で稼働し続けたフィルターのおかげで、魚の姿がまったく見えなくなる事態だけは免れた。だがそれでも、琴音の記憶が正しければ、水が元通りに澄むまでには一週間近くかかっていた気がする。


 砂であれなら、土であるソイルでは尚更だろう。たぶん。


「濁り方が酷いとしばらくレイアウト弄れなくなるんだよ。でも生体メインならいいや。濁りとれてから入れればいいだけだし」


 コーヒーを啜る。


「――お、美味いじゃん」


 そのとき、向かい側に座った小清水はちょうどプリンを飲み込んだところだった。


「こっちも甘くておいしいよ?」


「コンビニで買ったやつだぞ、それ」


「そんなこと言ったら、このコーヒーだってインスタントだよ」


 ふむ。


 琴音は再びコーヒーを口に運ぶ。ミルクのまろやかさをまず感じ、それが薄れるにつれてピリリとした苦みと酸味が舌を刺した。


 喉の奥へと追いやって、ほぅ、と一息。


「……お手軽でも、いいもんはいいってことだな」


「そだねぇ」


 プリンを頬張る小清水が幸せそうに相槌を打つ。



     ◇ ◇ ◇



「――さて、続きをやっちゃうか」


「はーい」


「とりあえず水を張ろう。ホースある?」


「あるよ、洗濯機に水引っ張るとき使ってるやつ」


 充分だ。


 これが水換えであればバケツとポンプを用意させるところだが、今やっているのは立ち上げで、しかも底床がないときている。水道から直接引っ張るのが一番手っ取り早い。


 小清水は洗濯機の横に丸めてあったホースを取り出した。一方の口を水槽の前の琴音に手渡し、もう片方を自ら持ってバスルームへと入ってゆく。


 二秒あって合図がきた。


「準備できたよ!」


「こっちもOK。水出して」


 蛇口を捻った音が聞こえた。


 ホースを握る琴音の手に振動が伝わってきて、直後、勢いよく水が飛び出した。


 ――やっぱ、立ち上げはいいな。他人の水槽だけど。


 徐々に上がってゆく水位を眺めながら、琴音は心がウズウズと震えるのを感じていた。


 空っぽの水槽はただの透明な箱だ。


 でも、そこに水を溜めたとき、ガラスの箱は魔法の庭に変わるのだと思う。


 新しい水槽を立ち上げることは、何もなかった空間を箱で区切り、その中に無限の可能性を吹き込むことなのだ。


「……っと、そろそろか。小清水さん、もういいよ」


「らじゃー!」


 再び蛇口を捻る音がして、水が止まった。


 琴音は吐き出されずに残った水をこぼさないよう気をつけながら、バスルームの前まで歩き、半開きのドアの隙間からホースを滑り込ませた。小清水が受け取る。


「どんな感じ?」


「ま、見ればわかるよ」


 小清水は実に無邪気な反応を見せた。ホースをバスタブに投げ込むと、琴音の脇を抜けて小走りでリビングへと戻り、


「わ」


 感嘆の声をあげて一言、


「ほんとに水槽を置いたって感じがするね」


 感じもなにも本当に水槽を置いたのだ。


 が、琴音はツッコミを入れなかった。小清水の発言は、さっきまで自分が考えていたこととそう違わないように思われた。


 返事の代わりにと、琴音は足元から袋を二つ拾い上げる。


「――じゃ、これ入れるぞ」


 袋にはそれぞれ、「カルキぬき」「濾過バクテリアの素」と書かれている。


 水質調整剤である。


「それ、何のためのものなの?」


「そのまんまだよ。カルキぬきはカルキ……要するに塩素を中和するための薬品。小学校とか中学校でプールの授業あったでしょ?」


「うん」


「プールって独特の臭いがあるよね。あれって塩素で消毒するからなんだ。汗なんかに含まれる成分と塩素とが反応してあの臭いになるんだけど」


「……あっ、もしかして、水道の水も消毒に塩素使ってるっていうお話?」


「そ。私たちは肺で息してるから塩素入りの水を飲んでも大丈夫。でも魚はエラ呼吸でしょ。水から酸素を取り込むから、水に塩素が溶けてると呼吸器系をやられるんだよ」


 水族館に塩素が投げ込まれて魚の大量死に繋がった事件があった、と続けかけて咄嗟に口を噤んだ。わざわざ陰鬱な実例を出すこともあるまい。


 幸い、小清水はこちらの説明を咀嚼することに夢中のようだった。袋にじっと視線を注ぎながら、


「なるほどねー……じゃあ、こっちのバクテリアっていうのは? そんなの入れてお魚さんが病気になったりしないの?」


 琴音は苦笑、


「まあバクテリアはたしかに細菌のことなんだけど、でもほら、私たちだって体の中に善玉菌飼ってるでしょ」


 それもそっか、と小清水が両手を打つ。


「ってことは、その中には役に立つ細菌が入ってるんだ?」


「基本的にはそう。水質を保つには濾過が大事で、濾過はバクテリアがやってくれるって覚えてくれればいいかな」


 話に聞き入る小清水の顔を眺めながら、こいつは案外覚えが早いかもしれないな、と琴音は考えはじめていた。生体の健康を蔑ろにするアクアリストも決して少なくない中で、小清水の真っ直ぐさは評価に値する。


「それって、袋を開けて水に入れるだけ?」


「入れるだけ。もっと手間をかけようと思えばかけられるけど、カルキぬきは分量守って入れれば悪い影響はないし、バクテリアは自然発生させようが売ってるやつを使おうが同じバクテリアだし。これから新しく買うかどうかは別として、セットに付いてきたのを敢えて使わない意味はないと思う」


 もちろん好きで手間暇かけるのは否定しないし、カルキぬきはともかくバクテリア剤に関してはぶっちゃけ私も使ってないけど。


 琴音はそう言葉を結ぶと、二つの袋の封を破って液体を水槽に垂らした。粘度の高い薬剤が水の中でくねり、その後を追うようにして微生物たちが水を白く濁らせていく。


 あとはフィルターを設置して一週間も回せば、白濁はすっかり収まって、生き物を受け入れられる水質ができあがるだろう。


「お手軽でもいいものはいい、ってやつだね」


「――だな」


 コーヒーとプリンの味が思い出された。琴音の口元が綻ぶ。隣では小清水もふやけるような微笑を浮かべている。


 しかし、二人の目はじっと水槽に注がれていて、互いの表情に気付くことはないのだった。

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