第106話 水着よりも隠れてるわけだし

 視点を校舎の反対側へと移してみよう。


 私立ならではの自由な校風がそうさせるのか、瑞泉祭への取り組み方はクラスによって様々だ。大がかりなイベントを実施するグループがいくつもある一方で、何も準備せず他の学級や部の出し物を楽しむだけの組も珍しくない。


 一年B組は紛れもなく前者だ。


 しかし、では委員長である翠園寺莉緒の意向が強く企画に反映されているのかと言えば、案外――否、まったくそんなことはないのだった。


「そろそろだね。行っくよ~、翠園寺さん」


「は、はいっ……!」


 教室の窓は暗幕で遮られ、頭上の蛍光灯は落とされている。入口のドアを開けて闇の中を進む者の視界にもしも明かりが見えたなら、そこはすなわち驚かし役の仕事場だ。


 段ボールに黒いゴミ袋を被せて設えた壁の奥、スタッフを務めるB組の面々が控えるスペース。客が自分たちの持ち場にやって来たのを見て取った由那と莉緒は、通路を挟んで覗き穴越しに合図と囁きを交わし合った。


 覗き穴を離れて薄カーテンの裏に立つ。客は三人、足音はもうすぐそこだ。


 タイミングを計る。三、二、一、


「がおーっ!」


「ばあっ!」


「きゃあああああ――――っ!!」


 ホラーハウスである。


 ホラーハウスのはずである。


 おそらく近所の小学生なのであろう三人の女の子から発せられた悲鳴に、しかし恐怖の響きはこれっぽっちもない。どちらかといえば黄色い歓声と表現するほうが実態に近く、その証拠に、裸電球の放つオレンジ色の光に照らされた少女たちの顔には喜色が浮かんでいる。


「おねえちゃんたち、かわいいー!」


「わあ、ありがとっ」


「ねえねえ、そのお耳とシッポって作ったの?」


「そうだよ~。よくできてるでしょ?」


 由那がその場にしゃがみ込んで少女たちと目線の高さを合わせ、ぽわぽわと綿菓子のような会話をはじめる。


 柔和な笑顔でたちまち子供たちと打ち解けてしまった由那の頭上には、犬耳つきのカチューシャが載っている。毛皮風の衣装を纏った身体、その腰の後ろで揺れるのはモフモフとした尻尾。女の子たちが言及しなかったこともつけ加えるならば、五指の先端に貼りつけたネイルチップも仮装の一環にほかならない。


 人狼のコスチュームであった。


 ――半ばわかっていたこととはいえ、やっぱり人選間違ってませんか?


 ホラーハウスにあるまじき微笑ましい光景を見つめながら、莉緒は包帯に隠れた眉根をきゅっと寄せる。


 これでも一応、やるからには真面目に怖がらせようという方針で企画を立てたはずなのだ。


 在校生や父兄をお化け屋敷で脅かせるとはよもや思わないが、それにしたって由那の起用はさすがに開き直りが過ぎた。せめて背の高い男子に任せていれば、目の前の女の子たちくらいには怖がってもらえたのではなかろうか――配役は投票の結果なのだから、言っても仕方のないことではあるのだが。


 ――まあ、わたくしも似たようなものですか……。


 迫力がないという意味では、先程一緒くたに「かわいい」呼ばわりされた莉緒とてそう違いはない。


「あの、お姉さん」


 三人の少女のうちの一人が、莉緒をまっすぐに仰ぎ見ていた。自分のとある一点が凝視されていることに莉緒はもちろん気づいていて、非常に嫌な予感を覚えながら少女の次の言葉を待つ。


「な、何でしょうか……?」


「どうしたら、お姉さんみたいになれる?」


 やっぱりそうきたか。莉緒は泣きたい気分を必死に堪えた。純真きわまる澄みきった視線が興味津々に捉えていたのは、思ったとおり、こちらのマミー衣装のサラシの下だったらしい。


 なっても肩が凝るだけですよ――という言葉は、布で押さえつけた部分の苦しさとともに喉の奥へと押し込めておくほうがいいのだろう。きっと。


「ええと……しっかり食べて、運動して、よく眠ることではないでしょうか……たぶん」


「そっかあ。がんばるね」


「はい……健康的に過ごすのが成長の秘訣です……たぶん」


 うまく笑えたと思う。


 由那のほうもちょうど話し終えたようで、女子小学生たちはようやく先に進んでいった。


 通路の暗がりへと遠ざかる三つの背中を見送りながら、莉緒と由那は声を潜めて語り合う。


「これは……失敗ですよね……」


「ええっ? 楽しんでもらえたんだから、わたしは成功だったと思うけど。――っていうか翠園寺さん、なんだかさっきまでよりもブルーじゃない……?」


「……はしたない姿をいたいけな子供たちに見せてしまいました……」


「でも小道具係になった皆、翠園寺さんがやるならってことで張り切ってそれ用意してたよ? 水着よりも隠れてるわけだし、気にしなくていいと思うなあ」


 不思議そうに由那が小首をかしげる。なるほど言われてみればそのとおりで、彼女の人狼にしても自分のマミーにしても、布の面積は水着と比べればたしかに広いかもしれない――のだがやはりそういう問題ではなくて、自分の中の何かがゴリゴリと音を立てて減ったような気がする莉緒である。


 ホームルームの時間、委員長として異を唱えておけば状況はもっとマシだったのだろうか。


 だが、痛恨の極みと思えたのも一瞬のことだ。なにしろ誰が何を着るのかは投票で決まったのであり、議長権限など民主主義の前では塵に等しく、最後の頼みの佐瀬先生だってこの手の盛り上がりにストップをかけたとは想像できない。


 ――運命だったと思うことにしましょう。


 ――皆さんがわたくしに遠慮しなくなるのは、わたくし自身が望んだ話には違いありませんでしたからね……。


 ノリのいいクラスに入った時点で詰んでいたのだ。莉緒は考えることをやめ、とぼとぼとバックヤードに引き返していった。

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