アクア・デイズ
スガワラヒロ
Ⅰ.水槽立ち上げの章
ⅰ.ゼロから始めるアクアリウム
第1話 わたしの師匠になってくださいっ!
真っ赤な魚が泳ぐ水槽の前で、
女子高生だった。
白いカットソーとピンクのパーカー、ベージュの膝丈スカート。私服全開といった出で立ちのそいつが女子高生だと何故わかったのかと言えば、校内で見かけたことがあったからだ。
「小清水さん?」
「わぅっ!?」
「こんなとこで何やってんの?」
琴音としては軽く声をかけたつもりだったのだ。しかし三秒後には、琴音は尋ねたことを後悔していた。
「ご、ごめんね! やっぱり私がお魚屋さんにいたらおかしいよね!」
「いや別にそれは勝手にしたらいいけど」
小清水由那が傍目にも明らかに狼狽したのである。
あわあわと言葉を探る様はまるで親にイタズラを咎められた子供のようだが、もちろん琴音に彼女を責める意図などなかった。自分の行きつけの店に他の誰がいようと、そんなのはそいつの自由だと思う。
愛想のない物言いをしてしまうのは自分でも気にしている短所だった。これさえなければ友達の数ももう少し多かったかもな、と考えてしまうくらいには。
――それにしても、お魚屋さんときたか。
まあ、あながち間違いではない。
間違いではないが、ここで取り扱っているのは熱帯魚とその飼育用具であって、夕食のテーブルに並ぶイワシやカレイでは断じてない。
「……いや、カレイはたまに入るか。淡水のだけど」
「えっ?」
「こっちの話。――いつまでも水槽の正面占有しないほうがいいと思うよ。ほら、ここ通路あんまり広くないし、意外と小っちゃい子連れた親とか来るしさ」
琴音がそう口にしたとき、図ったかのようなタイミングで幼い男の子が駆けてきた。小清水の脚を避けようとして排水溝の段差に躓き、
「おっと」
すんでのところで琴音が受け留めた。
男の子の背丈はこちらの腰くらいまでしかない。琴音はしゃがんで目線を合わせると、肩にかけていた両手をそっと外す。
「少年、走ると危ないぞー?」
笑って頭を撫でてやる。
いきなりのことで理解が追いつかないのだろう、男の子はぽかんと口を開けて琴音の顔を見つめていた。あどけない瞳が二度、三度と瞬く。
やがて助けられたことだけは理解したか、最後に「おねえちゃんありがとう」と元気よくお辞儀して去っていった。
――目当ては大型魚コーナーか。
わんぱく坊主め。微笑ましく思いながら、琴音はひらひらと手を振って男の子を見送る。
さて、と一息。小清水へと向き直り、
「――ね?」
「う、うん」
呆然と事の成り行きを見守っていた小清水が、はっと我に返って表情を正した。
「あの……巳堂さん、だよね? 隣のクラスの」
「巳堂琴音。――小清水さん、アクアショップ慣れてないでしょ? 外で話そっか、すぐそこに公園あるからさ」
◇ ◇ ◇
もちろん、琴音はきっちり自分の目的を果たしてから店を出た。小清水と並んで公園のベンチに腰掛ける琴音、その傍らに置かれたビニール袋の中には、今しがたレジを通したばかりの肉食魚用の人工餌が入っている。
「――要約すると」
小清水から事情をひととおり聞いた琴音は、腕を組んで遠くの雲を睨み、
「高校入学したのをきっかけに一人暮らしを始めたものの、予想外に心細くて?」
「そう」
「寂しくて実家に電話したら『ペットでも飼ってみたら?』って言われたけど、アパートがペット不可で?」
「そうそう」
「それを話したら、お祖父さんが『鳴いたり汚したり臭ったりする奴じゃなければいいんだろう』って水槽を送ってくれたと」
「そうなのっ!」
やっぱりな、というのが率直な感想だ。
要するに小清水は、アクアリウムに関してずぶの初心者なのだった。
「……いや、でもさ、魚もダメって物件あるからね。事故って下の階に水漏れするかもしんないし、ボロいとこだと床抜けるし。大丈夫なの?」
「えっと、そこは大丈夫。わたしもほんとかなあって思って、一応大家さんに確認してみたの。そしたらあんまり大っきいのじゃなければ置いていいって。あと、お部屋は一階」
「ふーむ」
琴音は自販機で買ったミルクティーを口に含んで眉をしかめた。桜もすっかり散ったこの時期に、外だからといってホットを選んだのは失敗だったと言うほかない。
小清水の様子を窺う。
こちらが飲み物に手をつけたタイミングで、同じように彼女も喉を潤していた。いちごオレの缶を両手で包んで、小さな唇にくっつけて。
――小動物みたいな子だな。
なんとなく、そんなことを思った。リスとかハムスターとか、そういう類の。
「飼いたいのはパロットファイヤー?」
「パロ……えっ?」
「見てたじゃん。あの赤くて丸っこい魚。あれは『パロットファイヤーシクリッド』っていうんだよ」
「あ、金魚じゃないんだねあの子」
ミルクティーを噴きそうになった。
水槽のガラス面に直接、白のポストチョークで商品名が書いてあったはずだが、こいつはあの表示をいったい何だと思っていたのだろう。
「ごめんね、わたしまだ全然お魚のこと知らないの。どういう子がいるのかもよくわかってなくって、とりあえず自分の目で見てみようと思ってお店に行って……かわいいなーと思って眺めてたら、巳堂さんが声かけてくれた感じで」
小清水の弁を聞きながら、琴音はポケットティッシュを取り出し、ミルクティーの逆流でツンと痛む鼻をごしごしと拭う。
「あー……あのさ」
アクアリストとしての直感が告げている。
このまま小清水を放置すると、ものすごく拙いことになりそうな気がする。
「始める前に、詳しい人からちゃんと話聞いた方がいいよ。水槽くれたっていうお祖父さんとかさ」
琴音は失念していた。
小清水の祖父は離れた場所にいて、電話でやりとりするのが精一杯であることを。
「そうだよね。生き物を飼うんだし、しっかりお勉強してからお迎えしないといけないよね」
そして、間違いなく近くに一人、「詳しい人」がいることを。
「――巳堂さんっ!」
目の前で、小清水が両手を合わせていた。
「よかったら、わたしの師匠になってくださいっ!」
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