第49話 部活なんて初めてだけど

 時間は再び現在へ飛ぶ。


 窓から見える景色は雨。本格的な梅雨の到来を窺わせる天気をそっくりそのまま持ち込んだかのように、教室に満ちる空気はじめっとした湿気を含みながら日に日に温度を上げてきている。


「さぁて、小清水ちゃんの生体お迎えが落ち着いたところで――」


 購買のビニール袋から取り出した惣菜パンの包装を剥きながら、四つの机をぴったりくっつけて作った島の一角で、千尋がにんまりと白い歯を見せた。


 ろくなことじゃないな、と琴音は直観する。


「コト、小清水ちゃん。部活やろうぜ」


 やっぱりな、と思った。


「なんだよ藪から棒に。変な思いつきに小清水さんを巻き込むな」


「いやいや、あたしの思いつきじゃねーんだってば。実はここんとこずっと懐で温めてた話でさあ」


「――わたくしからご説明しますね」


 こちらのやり取りを眺めていた莉緒が、鈴を鳴らすような笑い声をたてた後に口を開いた。


 コンテストを獲りにいくための部活であること。


 顧問が佐瀬先生であること。


 少なくとも当面の間は、部員は自分たち四人だけに留めるつもりだということ。


 小清水のテトラオドン・ミウルスが白点病を乗り越えるのを待って、今こうして話を切り出したこと。


 ひととおりの説明を聞いた琴音は、ふうっと長い息をついて、


「――なるほど。千尋の暴走じゃないのはわかったよ」


「それで、どうでしょう。ご協力いただけますか?」


「うーん……」


 素直な気持ちを言えば、賛成できない。


 コンテストに出すからにはアートアクアリウムかネイチャーアクアリウムの路線に寄せることになるのだろう。どちらを選んでもおそらく生体が必要になる。品種改良や人為的な交配が盛んな世界で今更「美しさのために命を利用するのはよくない」なんてぶち上げるほど厚顔でないつもりの琴音だが、飼うからには最後まで飼いきるべきであって、学校という場でそれを成し遂げられるかは甚だ疑問だと思う。


「餌やりとか温度管理はどうするつもり?」


「部費が出ますから、オートフィーダーを導入しようと考えています。温度管理は……クーラーですね」


「クーラー?」


 つまり、エアコンで部屋ごと適温にしてしまうという意味だろうか。


 それはたしかに効率的ではあるし、全てのアクアリストが「できることなら自分だってそうしたい」と考えているに違いない手段とも言える。


 が、しかし――


「土日はどうするの。あと祝日も」


「はい?」


「学校が休みのときはエアコンも動きません、じゃ意味ないでしょ」


「ああ、いえ」


 なるほどそこで認識が食い違っているのか、という顔を莉緒はした。


「クーラーというのは、エアコンではなくて……水槽用のクーラーを買うと言いたかったんです」


「え」


 琴音は、動きを止めた。


 水槽用のクーラー。


 興味がある。


 べつに自分の部屋に持って行けるわけでもないのだから、これといって得になるわけではないと分かってはいるが――


 アルバイトをしなければ到底手が出ないような高価な機器を扱えるというのは、ものすごくそそられる話ではないか。


「ちなみに、」


 琴音はぐっと声のトーンを落として、


「――ちなみに、部室はどこ?」


「第二理科室です。ただ、実際に水槽を置くのは来賓室でしょうね」


「ふむ」


「生徒の出入りが多い理科室に水槽を置くのはちょっと……その点来賓室なら利用するのは大人の方々なので事故も起こりにくいでしょうし、水槽があってもインテリアとして違和感ありませんから、ちょうどよいかと」


「コンテストが前提なら当たり前といえば当たり前だけど、外部の人の目に触れるわけだ」


「責任が重いと言えばそうかもしれませんが、だからこそ巳堂さんの力をお借りしたいんです。アクアリストとしての知識を持っている生徒は、わたくしの知る限りこのメンバーだけなので……」


「――わかった」


 心の天秤はすっかり傾いていた。


「やってみよう。……部活なんて初めてだけど、千尋と翠園寺さんとだったら不安もないし」


 そして琴音は、これまで黙々と成り行きを見守っていた小清水のほうを振り向く。


 小清水とも一緒にやれたら嬉しい。


 けれど、彼女は自分の水槽に魚を迎えたばかりだ。もしもそちらを優先したいと言われたならば、無理に誘うまいと覚悟を決める。


「小清水さんは、どうす――」


 尋ねかけた琴音はしかし、途中で言葉を引っ込めた。


 小清水の瞳はライトに照らされた水面のように輝き、左右の小さな手は胸元でぎゅっと拳を作っている。


 答えなど、聞くまでもなかった。

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