第50話 ただいま~、うめぼし

 莉緒が委員長の仕事を残しているとのことだったので、ひとまず今日のところは彼女から佐瀬先生に報告だけして解散する運びと相成った。ついでに入部届などの必要書類も受け取っておくということだから、活動再開の手続きには明日みんなで取り組む予定だ。


 アパートに戻った小清水は、浮き立つ気持ちのままに勢いよくローファーを脱ぎ、早足でリビングに向かいかけて、ドアに手をかけたところでようやく思いとどまって回れ右。ローファーを揃えてから今度こそリビングに駆け込んだ。親の目がないからといって行儀に頓着しなくなることがないように――引っ越してくる前、実家の母から念を押されたことだった。


「ただいま~、うめぼし」


 事情を知らない人間が聞いたら耳を疑いそうなセリフだが、なにも小清水は気が狂ったわけでもなければ、ヤバめの幻覚を見ているわけでもない。


 この場合の「うめぼし」とは、リビングの60cmレギュラー水槽の中にいるテトラオドン・ミウルスのことである。赤みの強い体色と丸っこい体型が梅干しを連想させたので、小清水がそのように命名したのだ。


 フグに言葉をかけたところで挨拶が返ってくるわけではない。それでも、うめぼしが部屋に来てからというもの、小清水は独りの寂しさを感じることなく生活することができていた。


「いま餌あげるね~」


 セーラー服から私服へと着替えた小清水は、人工餌の袋のジップロックを開けて、ペレット状のドライフードを水の中へと一粒放る。


 褐色のペレットは十秒ほど水面付近に浮いていたかと思うと、周囲の水を吸いながらゆらゆらと沈降しはじめた。琴音が使っていたのとは違って、底棲の肉食魚に与えることに適したタイプの餌なのだ。


 が――


「……う~ん、今日もだめかぁ」


 うめぼしは見向きもしない。


 白点病が治ってからずっとこの調子だ。……いや、治ってからもなにも治療期間中だって人工餌は食べていなかったのだが、いずれにせよクリルだけで凌ぐのはそろそろ限界を迎えつつある――ような気がする。


「クリル単食だと栄養バランス偏るってどこのサイトにも書いてるし、レパートリー増やしたいんだけどなぁ……」


 その点、最初から複数の原料をミックスして作られている人工餌を食べてさえくれれば、飼い主としてはずいぶん楽になる。しかし、どうやらそんなにうまい話はないらしい。


「しょうがないね。とりあえずは今日もクリルだ」


 ちなみに、クリルとはオキアミを乾燥させたもののことである。海産物ゆえに塩気があり、そういう意味でも淡水魚に与え続けるのは好ましくないとされていた。


 ――天然餌じゃないとダメなら、他には何があるんだろ。


 ――アカムシとかイトミミズとかかな?


 ――あとは、ちっちゃい魚とか。


 ――コオロギは……わたしがダメかなぁ……。


 クリルを一匹食べるたびに膨れてゆくテトラオドン・ミウルスの腹を眺めながら、小清水は思考を巡らせてゆく。


「……ん。巳堂さんの言ってたとおりだね」


 アクアリウムは試行錯誤の連続。だからこそ楽しみがある、と以前琴音が口にしていた。


 こうして魚を飼ってみた今、あの言葉の意味が実感として理解できる。


 あれこれと脳ミソの中で可能性を探り、導入する計画を練る――この作業にはたしかに、想像を膨らませる楽しみがある。人間ではなく他の生き物が相手であるからこそ、なおのこと先が読めなくて面白い。


「ふふふ、絶対なんとかしてやるぞ~」


 面白いといえば、もう一つ――


 部活のことだ。


 自分で魚を飼育するだけでもこんなに胸が踊るのだ。友達といっしょに水槽を作り上げるなんて、絶対にやりがいがあるに決まっている。


 ――早く明日にならないかなぁ。


 うめぼしが興味を示さなかった人工餌をスポイトに吸着させて撤去しながら、小清水は明日の放課後に思いを馳せてひとり頬を緩ませる。


 頭の芯がむずむずする感覚がある。


 琴音や千尋や莉緒とのお喋りに、これからは自分も「アクアリスト」として参加できるという事実が、いま、小清水の心を刺激してやまない。

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