第51話 餌付けに苦労すんのはアクアあるある
「――ふうん、餌ねえ」
翌日の放課後、莉緒が持ってきた人数分の入部届を書いている最中。不意に小清水の口から切り出された相談事に、琴音と千尋はボールペンを握る手を止めた。
千尋がくるりとペンを回しつつ虚空を睨み、
「まぁ、ワイルド個体の餌付けに苦労すんのはアクアあるあるだしなぁ。小清水ちゃんのミウルス……えーと名前なんだっけ」
「うめぼし」
「そうそう、うめぼし。ショップに入ってから日が浅そうだったし、人工餌にゃ慣れてないかもねー」
なんとも力の抜ける小清水のネーミングセンスは置いておくとして、千尋の見解には琴音も同感だった。
「クリルを使えるだけマシかもな。難儀な個体だと本当に生き餌しか食べてくれないから」
「でも、生き餌百パーセントだとお金がかかっちゃうよね?」
「だから悩みの種になる。――っていうか、ちょっと意外だな。小清水さんって生き餌自体には抵抗ないんだ?」
「あ、うん。それこそクリルだって元々生きてたわけだし。生き餌を使っても人工餌を使っても、他の生き物を食べさせてることには変わりないから……って、これは翠園寺さんからの受け売りなんだけどね」
「なるほど。いいこと聞いたな」
莉緒からそのような発言が出ていたという事実に、琴音は若干の感慨めいたものを覚える。自分や千尋のような肉食魚飼育者と、莉緒たちネイチャーアクアリウム派とでは、同じアクアリストでも宗派が異なる。ネイチャーでのメイン生体は肉食魚水槽だと餌になるわけで、莉緒の前で生き餌の話をしていいものかと内心不安だったのだが、どうやら彼女は理解のあるタイプだったらしい。
とはいえ――
現実的に言って、生き餌のみでの飼育が難しいことも確かだ。
それは小清水が口にしたとおりの経済的な面もあるし、毎日アクアショップまで足を運ぶのかという手間暇の面もある。
二つの問題を解消しようと思ったら、自分で生き餌水槽を作って、メダカなりエビなりを繁殖させるくらいしか手立てが――
「……待てよ」
繁殖。
「やってみるか」
「えっ?」
「ん……とりあえず、当面の間はいろいろ試してみたらいいよ。人工餌に見向きもしないなら冷凍餌を使ってみるとかさ」
冷凍餌? と小清水が首を傾げる。
「アカムシってこと?」
「代表的なのはそうだね。アカムシは乾燥タイプのやつもあるけど、魚がどっちに食いつきやすいかって言ったら断然冷凍アカムシのほう。生に近いんだろうね」
「アカムシのほかにも種類があるの?」
「いろいろあるよ。イトミミズとかミジンコとか」
小清水のテトラオドン・ミウルスのサイズを考えると、アカムシやイトミミズ、スジエビあたりが適当だろう。もっと成長してからなら他の選択肢も出てくるが――
琴音はそこで、小清水の顔へと視線を当てる。
「小清水さん、カエルとか虫は大丈夫?」
「カエルはたぶん大丈夫。虫は……ものによるかなあ。どんなの?」
「
「無理! どっちも変わらないよ……!」
「……これからアクアショップに何度も通うことになるだろうけど、餌売り場を見るときは気をつけたほうがいいぞ。爬虫類扱ってる店とかだと基本売ってるし、冷凍や乾燥どころか生きたやつもあるから」
血の気の引く音。小清水の顔がさっと青く染まる。
――ま、気持ちはわかるけどな。
琴音自身にもその昔、母と一緒にペットショップに入った際、透明なカップの中で蠢く群れを目の当たりにして絶句したという経験がある。頭の中を直接ぶん殴られたかのように何も考えることができなくなって、店を出るまで母の腰にしがみついて震えていた。
さすがに今はもう慣れたが、だからといって自宅にあれを常備したいかと問われれば答えはNOだ。無理に虫を使わなくても魚は飼える。
「ううう、でもわたし一人暮らしだから、出たら自分で退治しなきゃいけないんだよね」
「――小清水さんのお部屋、一階ですものね」
なにやら真剣な調子で小清水が悩みはじめるのを見かねたか、ここまで黙々と書類を作っていた莉緒が同情的な声で会話に割り込んだ。
「気兼ねなく水槽を置けるのはありがたいですけれど、虫が入り込みやすいのは確かでしょうね。排水口の隙間などは夏が来る前に塞いでおいたほうがよろしいかもしれません」
そこで莉緒は言葉を切り、琴音のほうへと振り向いてきた。
「――それはそうと巳堂さん、先程の『やってみる』というのは、もしかして部で生体を殖やそうというお話でしょうか?」
「ああ、うん」
書類に集中していたのかと思いきや、しっかり聞き耳を立てていたらしい。会話の流れを掴んだうえで軌道を正してきた莉緒に、琴音は頷きをもって答える。
「せっかく生物部として活動するんだしさ。水槽ひとつ作るだけじゃ勿体ない」
「あー、あたしもコトに賛成。コケ処理用のエビとか育てるにしても、別水槽あったほうがやりやすいしねー」
なるほど、と莉緒が一瞬思案する仕草を見せて、
「――わかりました。魚の繁殖なら教育の一環として活動内容に盛り込める範疇だと思いますし……水槽の設置スペースをいただけるかどうか、佐瀬先生に確認してみますね」
「助かるよ」
「いえいえ」
そして莉緒は、手元の紙を持ち上げてみせた。
「実は今、わたくしも相談したいことがありまして――」
莉緒が示した紙は、休部の措置を取り消すための申請書であった。ほとんどの欄は彼女の字で埋まっているが、ところどころ、まるで虫にでも食われたかのように空白になっている箇所がある。
その空欄の一つに、莉緒の白い人差し指が押し当てられた。
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