第38話 落ち着かないな
「――はあ。やらかしたな……」
リビングと廊下を隔てる扉が音を立てて閉まる。小清水の背中が扉の向こうに消えたのを確認して、琴音は溜め息とともに肩を落とした。
真横には洗濯機があって、洗濯機の上には空っぽのカゴが載っている。この中に脱いだ服を入れてね、という小清水の配慮――というよりも、単にいつもは彼女自身がそうしているのだろう。琴音の目の前にある折戸は直接ユニットバスへと繋がっていて、脱衣所はない。いかにもアパートの風情である。
「ありがたい……って考えるべきなんだろうな、シャワー貸してくれるの」
より正確を期するなら、シャワーだけでない。現に自分はバスタオルを小脇に抱えているし、この後は服だって借りなければならないのだから。
「巳堂さーん!」
扉越しに小清水の声が聞こえた。
「シャワー浴びてる間に、適当な服用意しておくね! さすがに下着は貸せないからちょっと落ち着かないかもだけど、我慢してくれる?」
「もちろん。ていうか、それ貸されたほうが落ち着かないから」
「あとでコインランドリー行こ? うちの洗濯機、あんまり乾燥機能よくなくって、すぐ着れるようにはならないの」
「わかった。……さんきゅ」
扉が開いて小清水が顔を出すのではないかと内心気が気でなかったが、むろん最後までそんなことは起こらなかった。あっちはあっちで床を拭く作業があるのだ。重ね重ね申し訳ないと思いつつも、琴音は安堵してセーラー服に手をかける。
水をかぶったことで布の抵抗が増しているせいに違いない、スカーフを外すだけでも一苦労だ。力をこめて結び目に指をねじ込み、半ば強引にほどいてカゴに入れる。
びしょ濡れになった服を脱ぐなんて何年ぶりだろう。
少なくともここ数年、そのような経験をした記憶はない。突然の雨に降られたならまだしも、水換えのバケツをひっくり返したのが原因とくれば尚更だ。
「不覚だ。千尋に知られたら笑われるな」
絶対言わないでおこうと心に決める。あとで小清水にも厳重な口止めをしなければなるまい。
そう――小清水である。
すっかり重くなったセーラー服とスカートとソックスをカゴの中にぶち込んだときだった。上着の生地の透き通る白さが目に入って、さっきの小清水の鋭い指摘が耳朶の奥に蘇った。
水色。
「――っ」
再び頬が熱くなるのが自分でもわかった。
「なんだよ、もう……っ!」
いや、もちろん、この場で教えてもらえたことに感謝すべきなのだと理解してはいる。
今日は一日じゅう晴れだったのだ。
そんな日に全身から水を滴らせて歩いている女がいたら、どうしたって人目を引く。無様な姿を無数の視線に晒す寸前だったことを思えば、やはり小清水は自分を助けてくれたのだと考えるべきなのだろう。
とはいえ、引き止めるにしてももうちょっとマシな――
「……っくし!」
寒気が背筋を駆け上がってきた。
そのまま外に出たら風邪を引くという小清水の
「さっさとシャワー浴びちゃうか……」
本当に体調を崩してしまってはあまりにアホらしい。
琴音は上下お揃いの下着を脱いでカゴに放ると、バスルームへと続く折戸を押し開けた。
◇ ◇ ◇
「――あ、もういいみたいだね」
二枚のドアの向こうから聞こえてきたシャワーの音で、小清水は琴音がバスルームに入ったことを察した。
今なら廊下に出ても大丈夫。
ちょうどこちらも床を拭き終わったところだ。小清水はバケツ――琴音がひっくり返してしまったやつではなく、いつも掃除に使っているほうだ――めがけて雑巾を絞ると、扉を押し開けてリビングを出て、トイレに入って水を棄てた。
バケツをひとまず置いておき、トイレを出る。
左に首を巡らせれば、洗濯機の上に載ったカゴが見える。
「……ちょっと意地悪しちゃったかなあ」
先刻の琴音の反応が思い出された。
いつもは大きく表情を変えることのない琴音の、紅潮した顔。
今まで彼女があんなふうに感情をあらわにした場面といえば、千尋にからかわれたときくらいではなかったか。
知り合って日の浅い自分がそれを引き出せたことにはある種の達成感を覚えないでもないが、千尋のようにそこに面白みを見出すことはできそうにない。
やっぱりふだんの琴音のほうがいい、と思う。
「服、サイズ合うといいけど」
小清水はいったんリビングに戻り、クローゼットから適当な衣装を持ち出す。パーカーと長ズボン。身長が違うぶんボトムスの丈に不安が残るが――
「いくらなんでも、この状況でスカート穿かせるのはかわいそうだもんね」
ひとり苦笑し、バスルームへと近づいていく。
◇ ◇ ◇
不思議な感覚だ。
バスルームに足を踏み入れた琴音が、真っ先に抱いた感想がそれだった。
自宅の風呂とも銭湯とも違う、なにかひどく場違いなところに身体を晒しているような気がしたのだ。
実際、その通りなのだろう。
なにしろここは、本来ならば小清水以外の人間が立ち入らなかったはずの場所である。壁にかかっているタオルもラックに置かれているソープの類も普段は小清水が使っているわけで、空間そのものが奇妙な生々しさを纏って自分に迫ってくるような錯覚すら感じる。
「……結局、落ち着かないな……」
それでも、シャワーを浴びてしまえば気は紛れたのだ。温かい湯が肌に弾かれて伝い落ちてゆく感触はどこで味わおうと心地よいことに変わりなく、バケツの水の冷たさを忘れさせるには充分だった。
が。
「――巳堂さん?」
心臓が跳ねた。すぐ近くから声がした。
「え! な、何?」
シャワーを止めて視線をずらせば、折戸の磨りガラス越しに小清水のシルエットが見えている。
「着替え、カゴの脇に置いとくね」
「あ……うん、どうも」
短く答えると、小清水の影は折戸のそばからぱっと離れた。気配が遠ざかってゆくのが足音でわかる。
心の底から安堵の息が漏れた。
「くそう……さっきからおかしいぞ、私」
調子が狂っている。それと自覚できるほどに。
たとえば、学校で体育の授業を受けるとき。体操着への着替えは当然クラスの女子と同室で、そこでは自分もこれといって意識したりはしない。小学校や中学校で行った修学旅行のときに至っては、班を組んだ子たちとお風呂まで一緒に入っているのだ。
――ここが小清水さんの部屋だからか?
そうかもしれない。友達の家のお風呂を借りるなんて滅多にあることじゃないと思う。自分の場合はそもそも友達が極端に少ないから、憶測でしか語れないのが何とも悲しいところではあるけれど。
――それとも、
「相手が小清水さんだから、か……?」
これが千尋相手だったら、自分はここまで緊張しただろうか。
たぶん、しないのではないだろうか。
千尋を部屋に上げた回数も、自分が千尋の部屋に上がった回数も、両手両足の指を全部合わせたって及びやしない。あいつはこっちのタンスのどの引き出しに何がしまわれているか知っているし、こっちはあいつの机のどの棚に何の参考書が死蔵されているかを知っている。そういう仲の相手に今更何を恥ずかしがることもあるまい。
ただのクラスメイトほど遠くなく、千尋ほど深すぎもしない間柄の小清水が相手だからこそ、こんなにも心が揺れるのだろうか。
「――あー、もう! わからん!」
琴音はひったくるようにしてシャワーヘッドを握ると、高々と持ち上げて再び栓をひねった。
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