第63話 共同作業お疲れさん

 鍋に水道水を張って、カセットコンロに火をつけた。


 沸騰を待つ間に何をしていたのかというと、答えは「ザリガニをアルコールに漬けていた」という言葉に集約できる。つまり、先程の女性キャンパーから譲ってもらった料理酒を、活きたザリガニ入りのボウルになみなみと注いだわけだ。


「これをやっとくと淡水特有の臭みが抜けるのよ。あと、アルコールが回ってザリガニが暴れなくなる」


「ザリガニさんたちも酔っ払うのかなぁ?」


「まあここまでいくと『酔い潰れる』って感じよね。ザリガニだけじゃなくてテナガエビ釣ったときなんかも同じ要領で絞められるから、覚えておくといいわよ」


 ――いいわよ、って言われてもなあ……。


 佐瀬先生と小清水の会話に耳を傾けながら、人生でその知識を使う機会にどれだけ恵まれるものだろうか、と琴音は口に出さず勘案する。


 しかし実際、佐瀬先生が説明したとおり、酒に浸されたザリガニたちの活性はみるみるうちに鈍っていった。もぞもぞと身じろぐように体や肢を動かしはするものの、川の中で見せるような素早い反応はもはやない。


 この様子ならばたしかに、ボウルから逃げ出される心配はあるまい。


「巳堂さん、お湯沸いたかしら?」


「あ、はい」


「んじゃテキトーに塩入れちゃって」


「……ええと先生。テキトーにというのは具体的にどのくらいで……?」


「目分量で充分よ。パスタ作るときと同じ感じで」


 これは佐瀬先生が大雑把なのだろうか。それとも自分の料理経験の浅さが問題なのだろうか。


 琴音がおっかなびっくり塩の袋を逆さまにして振りはじめたところで、助け船を出してくれたのは小清水だった。


「あのね巳堂さん、パスタ茹でるときと同じだったら、たぶん二パーセントくらいの濃度にするのがいいと思うの。わたしいつもそうしてるから」


 小清水の手が横合いから伸びてきて、袋を押さえる琴音の手に重なった。自分のよりもちょっと小さな掌、白い肌のすべすべとした感触に不意を打たれて、琴音の心臓がとくんと跳ねる。


「――んっ、このくらいでいいかな」


「さ、さんきゅ」


 真っ白な塩の粒が、沸騰する湯の泡の中に溶けて消えてゆく。


 鼓動のリズムを悟られぬように身を引きながら、琴音は佐瀬先生へと向き直る。


「……先生、次はどうすれば?」


「決まってるじゃない。ザリガニを茹でて、殻を剥いて身を取るのよ。そしたらタマネギとニンニクとオリーブオイルで作ったソースにぶっ込んでバゲットに乗せて食べる」


 工程を一気にまくし立てながら、佐瀬先生はボウルいっぱいのザリガニの群れを手渡してきた。


 ――本当に食べるんだなあ……。


 佐瀬先生の「何を躊躇うことがあろうか」と言わんばかりの自然体の表情と、小清水の握る菜箸に攪拌されて渦を巻く熱湯とを見比べる。


 ここまできたのだ、後には引けまい。


 琴音は覚悟を決めてボウルを受け取ると、鍋に向かって傾けた。酒に酔ってすっかり大人しくなったザリガニたちが、煮立った湯の中へとダイブしてゆく。



     ◇ ◇ ◇



「――というわけで、出来上がったバゲットトーストがこれだよ!」


 沢に戻るなり、待っていた千尋と莉緒に向かって、小清水が自信満々にザリガニ料理を差し出した。


 皿は大きく分けて二種類。バゲットを食べきれるサイズに切って焼いたトーストと、オリーブオイルをベースにしたソースである。ソースにはニンニクのペーストとみじん切りにしたタマネギがふんだんに使われていて、そこにボイルしたザリガニの身が入っている格好だ。


 佐瀬先生は基本的にレクチャーや食器の準備に徹していたから、こと料理に関して言えば作業していたのは実質、琴音と小清水の二人である。


 深めの皿に注がれたソースを前に莉緒が目を丸くして、


「あれほど多くのザリガニがいても、調理するとたったこれだけの量になってしまうんですね」


「身らしい身は腹の部分からしか取れなかったんだ。ウチダザリガニの成体ならハサミも食べられそうな気はするけど、アメザリだと難しいな」


 莉緒の指摘は、殻を剥いている最中に琴音がずっと考えていたことと見事なまでに一致している。


 アメリカザリガニの体の大部分を占める頭胸部は、その中身のほとんどが内臓だった。身は小さな腹部からしか採取できず、なるほど食材として普及しないわけだと思わされた。量に対して捨てる部位の割合が大きすぎる。


「エクルビスが高級食材になるわけですね」


「ザリガニを殖やすのは難しくないはずだけど、一匹からこの一欠片しか取れないとなるとなあ……こっちで食べる人が少ないのもこういうところなのかもね」


 もともとそれ自体が食用として輸入されたウチダザリガニと違って、アメリカザリガニは食用カエルの餌として日本にやって来たのだと聞いたことがある。物事には理由があるのだな、と勉強されられた気分だ。


 一方で、千尋はソースをまじまじと眺めながら目を眇めていた。


「タマネギ、なんか切り方粗くねぇ?」


「……悪かったな、切ったの私だ」


 痛いところを衝かれた。


 そこはスルーしてくれよと琴音は唇を尖らせて、


「ちなみに味は小清水さんが調えた」


「ふーん。じゃあ味は大丈夫か」


 どういう意味だコラ、と琴音は憤慨するほかない。料理のできるできないを言うならば、千尋だって自分と大差はないはずである。


「まぁ何にせよ、共同作業お疲れさん」


「んな……」


 琴音と小清水との間で視線を行き来させながら、千尋が意味ありげにニヤリと笑う。琴音はその額めがけてチョップを当てようとするが、脳裏によぎった動揺のせいかいつもよりも力がこもらなかった。


「はいはいあんたたち、さっさと食べましょ」


 佐瀬先生の声、


「午後もガサガサやるんでしょ? 喋ってばかりいちゃ時間がなくなるし、何より料理が冷めるわよ」


 佐瀬先生の皿のバゲットにはすでに生ハム――急遽ザリガニを調理することになっていなかったらこれがメインになっていたのだろう――が乗っていて、その上からソースがかかっていた。準備万端。口に運ばず待ってくれていたあたりは流石に教師と言うべきところだろうが、これ以上の我慢をする気はなさそうに見える。


 四人は顔を見合わせると、めいめいに同じように盛り付けを整えた。


 手を合わせて「いただきます」の号令。


 調理される前のザリガニたちの、ボウルの中で動いていた姿に思いを馳せながら、琴音はバゲットトーストを頬張る。


 口の中にまずガーリックの強い風味とオリーブオイルのコクが広がって、粗めに刻んだタマネギの食感が舌を撫でた。その直後、明らかに存在感の異なる何かを奥歯で噛んだ。


 硬い甲殻の奥に隠れていた、柔らかな肉の感触。


 少しだけ塩味のついた、淡泊な味。


 料理に使ったのは間違いなくザリガニだったはずだ。


 けれども、この味は――


「……エビだ」


「……エビだね」


「……エビだなー」


「……エビですわね」


 いけるもんでしょう、と佐瀬先生が得意げな顔をする。




 ――余談であるが。


 料理酒をくれたキャンパーの女性の話をしたところ、それまでもぐもぐと口を動かしていた莉緒の動きが凍ったように止まった。


「どしたん?」


 めざとく異変を察した千尋が水を向ける。


 莉緒の喉がこくんと食べ物を嚥下して、


「いえ、その……眠たそうな目に、ウェーブのかかったミディアムヘア、先生よりも二つ三つ年下くらいの女の方、だったんですよね?」


「そうだけど……?」


 わけもわからず眉をひそめる琴音に、莉緒は実に微妙な笑顔を浮かべながらこう言った。


「その方、わたくしの知り合いだと思います……」

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