第62話 縁は繋がっている……かも

 捕ったザリガニのうちの幼体、そしてヌマエビはすべてもう一つのクーラーボックスに移しておいた。


 魚と一緒になるのが気になると言えば気になるが、数センチほどしかない甲殻類がアブラハヤやカマツカを仕留められるとも思えなかったし、魚のほうのサイズからして逆が起こるとも考えにくい。そもそもの目的が生き餌にすることなのだから、あまり拘っても仕方がないという判断だ。


 とにかくそういうわけで、いま手元にあるクーラーボックスの中にはアメリカザリガニの成体しか入っていない。


「本当は数日かけて泥抜きしたいんだけど」


 佐瀬先生は水を換えながらぼやく。換えるというのはつまり、川の水を捨てて水道水を入れるという意味である。


 水道が使える場所のほうが都合がいいと言っていたのはこういうわけか、と納得しつつも、琴音は背中ごしに声をかける。


「その『泥抜き』って何です?」


「何って、絶食させて腹の中を空っぽにさせるに決まってるじゃない。バッタとか食べるときやるでしょ?」


「先生、いつもどんな生活してるんですか?」


 とんでもない人を顧問に持ってしまったのではないかという素朴な疑念が頭をもたげた。こちらが選んだわけではない以上、言っても詮無せんないことではあるが。


「まあ今回は気休め程度でいいわ、身だけ食べるならぶっちゃけ背腸せわた抜くだけでいいと思うし。――とりあえず今のうちに洗うもん洗っといて」


「あ、はい」


 琴音は水道に背を向けて、作業台へと振り返る。


 作業台の上にはつい今しがた袋から出した食材が並んでいて、ちょうど小清水が一つ一つ手に取りながら眺め回しているところだった。どのように切るかを考えているのだろう。


 ――私は調理器具の準備しておくか。


 琴音は作業台の隅に積み重ねてあった調理器具の山を持ち出す。鍋にボウルにスキレットに菜箸さいばし。いずれも佐瀬先生の私物である。これといって汚れているふうには見えないが、さっきの話からすると普段何を調理しているのか知れたものではない。念入りに洗っておいたほうがいいかもしれない。


 ザリガニのほうに泡を飛ばすのもよくないと思って、仕切りを挟んで反対側の水道に回った。


 そこに、女性がいた。


「こんにちは。先程ぶりですね」


「あ、はい……どうも」


 口元だけを動かして微笑む女性に、ぺこりとお辞儀を返す。


「ええと。さっきは料理酒ありがとうございました」


「いえいえ。やはり私には必要ありませんでしたから。帰りの荷物になるよりは、皆さんに使っていただけたほうがこちらとしても助かります」


 だから気にすることはない、と言外に告げているわけだ。よくできた人だなと琴音はひそかに感銘を受ける。


 自分たちよりは間違いなく年上だが、佐瀬先生よりはたぶん下だろう。二十代の前半から半ばといったところだろうか。


「皆さん、変わったことをされているんですね。先程少し見えてしまったのですが、クーラーボックスの中はザリガニでしょう?」


「はい。……ただまあ、実は私たちも初めてなんですけどね、こういうの」


「あら。そうなんですか?」


「私たち、亜久亜高校の生物部なんです。課外活動ってことで沢でガサガサ……魚捕りをやってたんですけど、ちょっとザリガニが捕れすぎちゃって」


「なるほど、外来生物ですものね。持って帰れないなら食べて処分というわけですか」


 理に適っていますね――そう言って彼女はまた微笑む。


 佐瀬先生の見立てが正しければ、この女性はキャンパーのはずだ。ザリガニを捕って食べるというのはアウトドア趣味を持っている人の目から見ても変わった行為なのだな、と琴音は苦笑半分で応じるしかない。


 そのとき、仕切りの向こうから佐瀬先生の声がした。


「巳堂さん、ボウルの準備できてるー?」


「あ……一分待ってください!」


 クーラーボックスの水を換えてからまだ五分と経っていないはずだ。絶食させることに要点があるならば川から上げたときがスタートだったとも言えるが、いずれにしても泥抜きなどろくにできていまい。本当に気休め程度で済ませるつもりらしい。


 琴音は水道の蛇口を捻り、スポンジタワシを濡らした。洗剤を垂らして泡をたて、銀色に輝くステンレスのボウルを擦っていく。


 キャンパーの女性がすっと身を引いた。


「すみません、お邪魔をしてしまいましたね」


「いや、そんなことないですよ」


 とんでもないとばかりに琴音は首を振って、


「――あの、料理酒のお礼もしたいですし、もしよかったらテントの場所を……ああ、でもザリガニのお裾分けなんて逆に困りますよね……」


 どうしよう。連絡先とか聞いてもいいんだろうか。こういうとき千尋や小清水だったらどうするのだろうか――。


「……ふふっ」


 琴音が懊悩しかけたとき、女性はほんの微かに目を細めた。


「別に困りはしませんよ。しかし、申し上げたとおり私も荷物が軽くなるほうが助かるので、お礼は必要ありません」


「でも……」


「ご心配は無用ですよ。縁があればそのうちまた会えるでしょう」


 女性が踵を返した。


 琴音はそこで初めて、彼女が手ぶらであることに気づく。


 ということは、この人は最初から、料理を作るために炊事場を訪れたわけではなかったのか――?


……かも、しれませんよ」


 意味ありげな言葉を琴音の耳に残して、キャンパーの女性は去っていった。




「――ふぅん。そりゃまた、不思議な人だわね」


 佐瀬先生にボウルを手渡すと、先生は慣れた手つきでザリガニをボウルに移し入れながら、いかにも興味深いと言いたげな唸りを漏らした。


 その感想には琴音もまったく同感だ。


 生物部である限り――とは、どういうことなのだろう。


「ひょっとして、」


 話を聞いていた小清水が下唇に指を当てて、


「あのお姉さんもアクアリストなんじゃないかな? コンテストに出場するライバルかもしれないよ」


「うーん……」


 その線は薄い、というのが琴音の見解である。


「私、生物部だとは言ったけどコンテストに出るとは教えてないんだよな」


「そっか~……」


「――卒業生かしらねぇ」


 佐瀬先生が思いついたように口を開いた。


「生物部は部員不足で休部してただけだもの。ちゃんと活動していた頃に部員だったOGなら、たしかに縁があると言っても間違いではないかもね」


 それはありえるかもしれない、と琴音は黙考する。


 生物部はもう随分長いこと休部状態だったと聞く。


 しかし、あの女性キャンパーが自分の想像したとおりの年齢なら、彼女が高校を卒業したのは六、七年は前のはずだ。


 基本的に三年で全生徒が入れ替わる高校において、六年は充分すぎるほど「長い期間」と言えるだろう。


「――さて!」


 佐瀬先生がぴしゃりと手を打った。


「部長と委員長を待たせすぎちゃいけないわ。考えても答えの出ないことよりも、手を動かせば進捗することのほうを優先しましょ」


 いつの間にかクーラーボックスは空になっていた。


 赤黒い甲羅をもつ成体ザリガニの群れが、銀のボウルにひしめく。そのボウルを作業台にドンと置いて、佐瀬先生は青空に宣言した。


「ザリガニ、料理していくわよ!」


「おーっ!」


 小清水がテンションを上げて、小さな拳を突き上げる。


 生物教師による家庭科の課外授業が始まろうとしていた。

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