第35話 ホースもう使ってみた?

 それからの小清水にとって、一週間という時間の流れは、苔むした水場に伝播する波紋のごとく緩慢に感じられた。


 幸いだったのは、やることがまだいつくか残っていたことだ。


「小清水さん、ホースもう使ってみた?」


 水曜日の昼休み、琴音が思い出したようにそう尋ねてくれなければ、小清水は時の進まなさに耐えかねて干からびていたかもしれない。


「そういえば、まだだったよ」


 正直に答えた。


 ちなみに琴音の言う「ホース」とは、もちろん先日買った水換え用のホース――商品名「エキスパートホース」のことである。


 ホースと聞いたときは細長いチューブを想像していたのだが、パッケージに描かれていたのは軟質素材の管とプラスチック製の筒とを合体させたようなつくりの物体だったし、実際に箱から引っ張り出した実物もそうだった。灯油ポンプに近い。青森のおじいちゃんの家に置いてあるやつ。


「とりあえず組み立てるだけ組み立ててはあるけど」


「そっか。……そっか」


 琴音はしばし、口元をもごもごと動かして押し黙る。


 こちらの発言から何らかの意味を読み取ろうとしているようでもあり、己が口走ろうとしている何事かを躊躇っているようでもあった。


 すうっ、と深く息を吸い込む音。


「――き、」


「き?」


「今日、遊びに行っていいかな?」


 小清水は目を瞬かせる。


「わたしの部屋に、ってこと?」


 もちろん構わないに決まっていた。


 小清水が部屋に友達を呼んだところで誰に文句を言われることもないし、そもそも魚を飼おうと思い立ったのだって一人の空間が寂しかったからだ。琴音や千尋が来てくれるのはむしろ大歓迎、


 ――あ、いや……。


 ひとつ都合の悪いことに思い当たった。


「実は、この前の休みとのき、スーパーでコーヒーとお茶買いそびれちゃって……いまどっちも一人分しかなくって」


 目の前で、琴音の眉が当惑げにひそめられた。「だから?」と聞きたそうな顔つきだ。


 自分は何かズレたことを話してしまっているんだろうか。不安を覚えつつ、しかし小清水は言うだけのことは言おうと思う。


「えっと、つまりね……二人に同じの出せないけど、それでもよければ」


「いいよそんなの。べつに何か出してもらおうなんて思ってないし。――ていうか千尋は今日いないよ。私だけ」


「――あ、そうなんだ。どうしたの?」


「なんか、翠園寺さんから頼まれごとがあるんだって」


「ふぅん……?」


 そういえば、二限目が終わった後の小休憩の際、莉緒が珍しくスマートフォンを弄っていた。もしかしたらあのときに約束を取り付けていたのかもしれない。


「翠園寺さんが誰かに頼み事するのって珍しいかも。クラスじゃいつも頼まれるほうなんだよ。嫌な顔ひとつしないのはすごいなーって、見てて思っちゃう」


「それは想像できる。そのうえ千尋につき合わせるのはなんか悪いな」


「……えっと。今回は翠園寺さんからの頼みごとなんだよね?」


「千尋が言うにはそうらしい。――ま、生き物を飼う技術はすごいし、器具とかもいろいろ試してるからな、あいつ。生体がらみで翠園寺さんが何か困ってるなら、相談する相手としちゃベストか」


 おそらく琴音は、先日の「AQUA RHYTHM」でのやりとりを想起しているのだろう。ちょうど今、小清水がその光景を脳裏に蘇らせているように。


 自分たちがポリプテルスを見ている間、莉緒と千尋は水草を吟味していた。あのときは千尋のほうが、水草のスペシャリストである莉緒に協力を仰いでいたという。


 莉緒と千尋は、方向性こそ真逆ながらも、両者ともにアクアリウムの熟練者であるという点で一致している。あるいは方向性が真逆だからこそ、お互いの持っている知識を気兼ねなく出し合えるのかもしれない。


「けっこういいコンビになるかもだね」


 しかし琴音は、遠い目をして笑うのだ。


「どうだか……翠園寺さんに伝えといて、千尋があんまり引っ張り回すようなら私が首根っこ掴みに行ってあげるって」


 小清水は思わず噴き出した。


「ほんとに仲いいよね、巳堂さんと天河さん」


「や、あいつとはただの腐れ縁で……」


「またまたぁ。――遊びにくるってお話だったよね? いいよ、何するの?」


 反駁の機を失って、琴音は唇をへの字に曲げる。


 が、切り替えは早く、


「……魚をお迎えする前に、水槽の様子を見ておきたくてさ。もうあんまり時間もないから」


「たしかにそうだね。わたしも巳堂さんに確認してもらったほうが安心できるし、ぜひお願いしたいな」


 師匠からの最終チェックといったところか。


 俄然楽しみになってきた。ちゃんとできているか不安がないわけではないが、それよりも今の水槽を琴音に見てもらいたいという気持ちが強い。底材と溶岩石、そして千尋からもらったマツモのおかげで、立ち上げたときとは雰囲気がずいぶんと様変わりしたのだ。


「ま、私が今見たところで何が保証できるわけでもないけど……今のうちに水換えを教えておこうかなって意味もある」


「あ、だからさっきホースのこと聞いてきたんだ?」


「そういうこと。――じゃ、放課後よろしくね」

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